雨宮昭一の個人研究室

政治学と歴史学と地域の研究をしている雨宮昭一の備忘録です

新しい研究段階

 研究には新しいパラダイムの提起、論争、定着、新しいパラダイム、という循環があるが、その定着と新しいパラダイムの間には、そのパラダイムに正確に内在しつつ、新しい提起を行う段階がある。最近いただいた及川英二郎さんの大著『現代日本の規律化と社会運動ージェンダーと産報・生協、水俣』(2022年、日本経済評論社)はそのような意味を有しているようにおもわれる。

 及川さんは、フーコーによりながら、近代は言説や制度に従う主体の誕生であること、そこには、個人としての主体という普遍性があること。しかし、それがよい労働者になるという単一の尺度による均一化に帰結した、としている。それがジェンダー差別や障害者差別になる。それを克服するために、上記の普遍性と主体性を保存しつつ、「よい労働者」=「普通の人」とそれ以外という差別のある社会から、両者がというより「それ以外」のひとが対等にあることが「当然」である社会という「新しい共同性」「オルタナティヴ」を提起する。

 そのために戦前戦時戦後にわたって、具体的には戦時期の産業報国運動、戦後の生協、水俣病患者、を実証的に分析し運動と意識における「新しい共同性」の析出に一定程度成功している。それは、戦時戦後の連続論、総力戦体制論、政治社会潮流論、方法としての政治社会史、などによるこの3,40年前からの歴史学や人文社会科学のパラダイムの変化を正面から受け止め、きちんと理解して、そのパラダイムに新しい知見を加えることに成功した価値ある研究といってよい。それゆえに部分的とか、国家論がないとかの批判は意味を持たない。

 この研究で新たに析出された問題を、その新たな地点から、他の領域、方法などとの検討をすることが生産的だと思われる。その論点をいくつかあげてみたい。まずその一つは、戦前戦時戦後現在に及ぶ、分析の幹にあたる「潮流論」についてである。及川さんは、自由主義派、国家社会主義派、日本主義派の三つに分けられた。私は反動派、社会国民主義派、国防国家派、自由主義派と4潮流としたが、その社会国民主義派と国防国家派を国家社会主義派にまとめられた(本書100ページ)。これから議論しなければならないが、第一点は「国家社会主義派」はナチスと同じ名称だが事実のおいてそれは存在しているか。第二は、及川さんの「新しい共同性」を考える場合にも、戦後の諸運動との連続においても上記の二潮流の違いは、意味をもたないか,などの議論は新しい研究の糸口になると思われる。

 運動と意識に焦点を当てて析出した成果を様々な領域から議論することがたくさんある。それが同時に個々の領域や局面だけではすまない、全体の構造、オルタナティヴの戦略的展望の究明になろう。たとえば横浜市の60年代70年代の生協における主婦の実践が「新しい共同性」を表現したとの貴重な指摘も、小金井市でも共通性があるが、60年代70年代のベッドタウン化の全国的展開のなかで、企業戦士と専業主婦という性別役割分業が、60パーセント以上になる歴史的に初めての状況との関連、さらに小金井市では、80年代以降そうした主婦の運動が急速に後退する。それは、主婦たちが、パートもふくめ職場に出て行ったからであること、さらに主婦たちが、解決しようとした問題が、行政によってとりくまれたり、企業の指定管理者制度、女性も多く参加しているNPOなどによりおこなわれることなどとの関連。さらに産業のソフト化による、男女の働き方の差異の減少との関連、しかも高齢化の現在、団地や住宅地の高齢女性たちが、再び地域をささえるという、私がやや抽象的にかんがえていた、人生百年時代の社会を支えるのは高齢者だ、を具体的に先取りするようなことの関連、など。

 水俣についても、運動、意識の点で貴重な指摘がある。その上でその側面を持続発展させるためには、それを市長などとしてある側面からすすめた、会社でも漁業地域でもない農業地域の名望家系統の自民党系地域政治家であったことなども、議論されるだろう。

 さらに「新しい共同性」についても、戦後日本社会の企業社会で、日本人、男性、正社員、健常者、壮年が主人の社会から、上記以外の日本人以外、女性、非正規社員、障害者、若者、高齢者も主人公になる社会に移行すること。そのためには、商品化と互助や連帯、資本とコモン、自由主義と協同主義の共時通時の関係を考えること,、両者における働き方、などの私の指摘との議論は研究段階を一歩進めると思われる。