雨宮昭一の個人研究室

政治学と歴史学と地域の研究をしている雨宮昭一の備忘録です

ポスト戦後システムと再コモン化・コモン化

 

1、はじめに

僕も分からないことがいっぱいあるので、皆さんがいろいろなこと教えてください。大きなテーマとしては、「ポスト戦後システムと再コモン化・コモン化」です。これは本来人々や、自然の共有財産である、時間空間が、資本や多国籍企業の私有原理により領有され、国家に占有されていることに対して、人々の共有空間、共有地、共用地、共有財産,共用財産にする、多様な領域とレベル、および多様な形態を考えようとするものです。

その私有とコモンとの関係に接近するための方法として、共時通時における自由主義と協同主義、および市場と国家のデザインを考えたいと思います。僕が最近出した『時代への向き合い方』(2021年、丸善プラネット社)という本の中で集約した問題なんですが、現在はポスト戦後システムのプロセスの中にあるという話と、もう一つは、僕の総力戦体制論とか、それから四潮流論の問題をもう一回展開し直すと、自由主義と協同主義の共時的なレベル、通時的なレベルの関係と割合の展開として議論をすると、非常にリアリティーがあると思います。いうまでもなくその両者の関係において、僕は全面的な自由主義化には大きな問題があることはもちろんですが、自由主義を絶滅させて協同主義が全面化することは、それが既得権益の全面化による自由の制限に至る可能性もありますので、あくまでも両者の適切な関係を考えます。

 それから、もう一つは、市場と国家をいかにデザインするかという問題を考える必要がある。その方法としては、政治社会史、つまり、現実の一番重要な問題は社会の問題で、その社会の問題がどう政治的に反映するかの展開を、そういう方法をもって考えていこうと思っています。

 

2、ポスト戦後システムと戦争

地域に住んでいる人々の生命と生活から政治、国家、民族などを考える

つい最近の問題なんですが、ウクライナ事変、これは満州事変みたいな話で、戦争ではなくて事変だとかっていうのはそっくりなんですが、ウクライナ事変の歴史的な位置はなんであるかという問題を、戦後システム、あるいはポスト戦後システムの問題での関連で考えてみたい。そのことについては、2月26日の僕のブログの中で、「悲惨な市街戦と「傀儡政権」」という問題を、侵攻が始まって2日、ほとんど侵攻がない時に書いたものです。

 だから、そのときのことにかなり僕は拘束されていますが、そこでは、抵抗勢力は亡命して、正統政府を外につくって、それで、芯を持った「傀儡政権」がやるけれども、「傀儡政権」と正統政権がやることは、占領軍の命令を紙くずにするようなことも含めたシステムをどうつくって、非暴力の抵抗で現実を変えていくというのが、最も犠牲が少ないものではないかという話をしています。

 これは何かというと、政治社会史の方法で、社会と政治、あるいは社会と国家や民族とかの関係どう考えるかというと、社会のほうが基本になると。人々の普通の生活が基本になって、その人々の生命と生活をどう守るか、どう存続するかということが基本で、国家や民族の問題というのは副次的なものであるというふうに考えたほうがいいと。つまり、具体的には、これは、国家ではなくて、人間の安全保障っていうふうにも言われることもありますがますが、よく見ると、やや原子論的個人に還元しており、やっぱり、国家や民族の問題が、非常に不可欠な問題として議論されています。もう少しそこを人間の集まりのレベルとしてさっぱりと切り分けたほうがいいのではないかと考えます。

 

「属国でなぜ悪い」

そうすると、僕は、今までの本の中では、戦後のシステムは、九条体制を守って、かつ属国でない状態をどうつくるかというビジョンが課題だということを言ってきたんですが、この間のいろいろな状態を見ると、属国であろうとなかろうと、その地域に住んでいる人々の生命や生活がどう守られるかということを最上位にすべきではないかというふうに思っています。

 そこでは、つまり、今の侵攻を見ると、26日とは随分違うんですが、ロシアの兵士も1万以上なくなっているわけです。それから、当然、ウクライナの子どもや、女性や、庶民、兵士がたくさん難民になったり、なくなっているわけです。そのことについて、NATOは、実力的に介入もしないくせにウクライナに武器を送って、戦争を持続させる。ロシアはロシアで、引っ込みがつかないという状態で、いわば、このまま続けるという事態が、悲惨な市街戦という事態を生んでいるわけです。

 戦後の国際システムとは一体何かというと、これは前からずっと言ってましたが、はっきり言って戦勝国システムだと。それから、もう一つは冷戦体制。ただし、そのときに大事なのは、冷戦体制であっても戦勝国体制は割れてなかったんです。つまり、核兵器戦勝国がみんな持って、ある意味では共存してたわけですが、ところが、これが、新しい段階に入っります。つまり、戦勝国同士が熱戦をする可能性が出てくる、いう問題になってきます。

 それは、常任理事国の拒否権体制によって、それが、否定できなくなってくる、いうことでもあります。それが、かつ、実は、戦後国際システムという、核兵器は使わない、特に戦勝国の間では使わないということを前提にしたシステムがくずれ、実は使う可能性が出てきてるという点で、明らかに戦後の国際システムの転換点に立ってるというふうに思うわけです。

 今までのシステムを前提にすれば、第3次世界大戦が起きるということによって、ここではG7が戦勝国体制になって、そしてロシアや中国いわば権威主義的な勢力を無条件降伏で倒してG7が戦勝国になって、というふうに、考えるのが、1次大戦、2次大戦までの話だったわけです。これが、だから、G7が戦勝国体制になってくると、日本は戦勝国になって、常任理事国になる、とこういう話になるわけです。

 ところが、いまや、徹底的に無条件降伏モデルでやって、相手のぐうの音も出させず、自立性を奪うというシステムが不可能になる。具体的には核戦争が本当に行われるということになります。無条件降伏ではなくて、最初は戦術核兵器で始まって、核兵器とか原発を撃ち合って、両方を撃ち合うわけです。いずれにしても、無条件降伏レベルでない形での妥協しか存在しないということになるわけです。

 つまり、戦勝国システムとしての戦後システムは、不可能であるという状態になってくる、そうだとすると、一体、どういうことが可能になるかという問題で、無条件降伏モデルによる戦勝国システムでない形だとすれば、新しい戦後システムとは何か。つまり、両方で核兵器で脅し合って、結局は、無条件降伏にならない状態で終わる。要するに、覇権秩序が相変わらず出てくるという状況の中では、それをどうするかという問題でいえば、非覇権的な国際秩序をどうつくるかという問題として考えなければならない。

 そうすると、非暴力の抵抗、あるいは協同主義的な秩序とか、九条体制のものは実は不戦的な形で、そのことももう一回再構成して、非覇権的な国際秩序を現実につくると。これは、他の所にも書きましたけれども、アメリカは、覇権国としての没落ですから、白人天国を再開したいとかっていうトランプ路線だし、それからロシアのほうは、冷戦体制の最盛期の夢を追うという。いずれにしても、覇権国の没落があって、そういう意味で言えば、日本はある意味では覇権国を卒業しているわけです。それが、新しい戦後システム形成に何らかの意味を持てるのではないかということを考えています。

 国内的には現在、安部派などが推進して来たナトーなみのシステムにすることを「スムース」に岸田首相が行っています。これは労働者が不満を持つ政策を労働者党、社会民主主義政党が、スムースに決定するように、「タカ派」の政策を「ハト派」がスムースに決定していることでもあります。しかし、「ハト派」が持っているかもしれない戦後システムの歩留まりはある可能性があります。同様に国際システムについても、現実はナトー派,反ナトー派の二つの覇権勢力が力を持って存在するでしょうが、両勢力ではない、多数の非覇権的勢力、非覇権国のうごきが、長・中、短各期間において、よりましな決定と方向性を決める可能性があります。

 

その地域の人々の生命と生活を基本とする視点からの戦後システムの評価  

あらためて,これまで述べてきたその地域の人々の生命と生活を基本として、国家や民族や国際関係をそのためのものとして、副次的に考える、という視点から見ると、ある意味では日本の戦後はその典型的なケースであります。通常の国家が担う軍隊、軍備、徴兵制など軍事的負担をほとんどせず、それも背景にして、経済の高度成長を行い、国民の生活水準を向上させ、福祉を高い水準で充実させてきたわけです。つまり上記の社会の圧倒的上位のありかたです。その意味では国家が社会に飲み込まれていたわけですね。この社会と国家の関係を冷戦体制、および自民党社会党の政治、あるいは55年体制が推進しました。それが冷戦の終結、およびその終結の仕方の結果から、普通の国家になることを迫られているのがいまですね。そこで、国際的には非覇権国や勢力による非覇権的非軍事的国際秩序の作り出し、それと強く関連する国内のおける生命と生活を最上位に置いてきた戦後日本の社会の強さを発展的にバージョンアップする方向性がオルタナティブとして提起できると思います。

以上のような非覇権、非軍事、非暴力の内外システムをつくるための戦略については、ジーン・シャープの非暴力、非服従の戦略論は重要です。彼は非暴力、非服従を、原理的にも確信し、その実行のために、住民、趣味愛好団体も含む非政府組織、体制内部の警察官、軍隊、官僚組織っそれぞれにそくした、説得、隠れた非協力、体制内部の非効率、競争、などの弱点を見つけて介入などをのべています。彼は暴力的支配も人々の服従する同意に依存しているから、それを減少させればその支配は崩れることをそして世界の可変性を確信しています。戦争の絶滅も目標にしています。それを背景に、一時的、心情的にではなく、関わること、ある支配を崩壊させても問題が終わらず、新たな公正を作らなければならないことをのべています。非覇権と自由主義と協同主義の関連、最上位におくものなど、僕と異なるところがあってそれゆえにもこれから生産的な対話ができると思っています

3、通時─共時、各レベルの私有とコモンの関係と協同主義と自由主義の関係と割合

 次に、第2番目のことです。私有とコモンを通時、共時の各レベルの協同主義と自由主義の関係と割合の問題を通して考えてみます。これは、僕は、総力戦体制論と四潮流論を展開してこうなったんですが、その結果から見ると、よく見ると、日常生活の中でも、職場でも地域でもそうですが、実は資本の論理とか国家の論理で全面的に社会が動いているわけではないということがよく分かるわけです。

 例えば、デヴィッド・グレーバーなんかが出してる例で面白いんですが、職場で、ある人がレンチをかしてくれっていうときに、それは要するに労働力を商品として交換し合うという関係ではない関係。相互扶助とか贈与的な、贈与というのは、モースの贈与論での貸し借り関係ではない問題です。そうじゃなくて、そういう貸し借り関係でない、いわば交換関係のことを贈与関係と言ってますが、そういう相互扶助や贈与関係のような、つまり国家的でも労働力を商品と交換するものではないような関係が、日常生活の中にも存在してるということがよく見えるわけです。

 考えてみると、各領域でも、企業も国家も必ずしも全部資本主義的で国家的であるという形では動いていない。それは、非常に協同主義的な契機も持ち得る側面を持っている。これは、ローカル、ナショナル、リージョナル、グローバルのレベルでそういうことが言えるんですが。例えば、ローカルなレベルで、町内会などは、権力の手先みたいな議論もありますが、逆に、たとえば川崎なんかを見ていると、面白いのはヘイトを防止するのに町内会が非常にいろんなことをやっていることも含めて、さまざまな協同主義と自由主義の関係が存在する。

 リージョナルのレベルでいえば、例えば、後からお話ししますような、グローバルタックスシステムなんかにおけるEUの動き方なんかも、非常にそのことが言えるわけです。そういう意味では、あらゆるレベルを、私有化と国家化とコモン化の併存と、両者がコントロールし合うヘゲモニー空間として世の中を見たほうが面白い。私有化とか国家化とコモン化という関係は、自由主義と協同主義の関係と強く関連していると思います。

 

4、通時―資本、国家による私有化と再コモン・コモン化の諸局面

 第3番目、最後ですが、近代以前までは、入会権も含めて、コモンだらけだったわけですが、良くも悪くも、それが近代になってくると、国家や資本が非常に浸透して、私的所有権の神聖化が始まる。ある意味では、現在も含めてですが、大きな資本が決定的な影響力を持っているけれども、しかし民主的な手続きに一切コントロールされない、というふうな事態になってくるということに対して、封建社会に単純に戻るわけにはいかないが螺旋的な展開として、再コモン化、あるいは新しい時代に見合ったコモン化を考えるしかないだろうと思います。

 コモンというのは何かというと、公共財という意味もありますし、公共空間、公共時間という意味もあります。パブリックというのは、国家などによる管理財とか、管理空間、管理時間であって、比較的そこは資本や私有原理に沿ってる場合が多い、これは、オキュパイ運動などのグレーバーとか、ハーヴェイとか、いろんな人間が言っていることですけれども、99パーセントと1パーセント、つまり1パーセントの富裕層は、99パーセントの人間の物を持ってるという状態であって、しかも現実にはこの1パーセントが非常に影響力を持っている。

 そのことが非常に面白いのは、これは、いろいろな人も言っていますが、僕の知り合いで、財務省の課長などをやった人と、話したことがありますが、先生、だけど、99パーセントなんだけど、1パーセントの人間が、政治資金の99パーセント出してますからねと。彼は、アメリカに行って調べたりしてるんですが。要するに、1パーセントの人間が政治を私物化できる。具体的には、政治資金が、ヒラリーなんかも含めて、99パーセント近くが、この1パーセントの人間たちの献金で出来上がってるんだという話で、どこまで本当かどうか分かりませんが、そういう問題があるというわけです。これも民主主義の問題として難しい問題です。

 

地域、道路、企業などのコモン化・空き地、大学、農地など

社会の利益を、献金を受けた政党がそれを反映するという形で、政治が民主的に運営されているという議論もあり得る。この問題でいうと、オキュパイ運動というのは、公共空間をつくるという運動として非常に重要な意味を持つと思います。。これは、当たり前なんですが、道路とは一体誰のものかとか。それから、官庁の広場は誰のものかっていう問題になってくると、それは、別に、官庁の物や、自動車資本の、自動車がわーわー通るためのものじゃなくて、そこは、表現の自由とか、それから、それ以外の人間が集まる場所として公共空間にすることが、なんで悪いんだという話に関わってくる。

 それから、必ずしもこれは運動に限らない場面がたくさんあります。僕はいろいろ、地方自治体の審議会とか政策運営に少し関わることがありますが、本当に面白いのは、地域とか、道路とか、企業などをどうコモン化するという問題が、非常に今は考えられることになっています。具体的には、空き地をどうするかっていう問題です。それから、大学も、なんか今、選択と集中とかで、非常に資本主義化されてますけれども、大学はそもそも公共空間としてどう形成されるかっていう議論をしないと話にならないわけです。

 それから、農地も、これは、単なる私的所有の問題ではなくて、環境とかとも含めて非常に重要な意味を持つ。例えば、僕が関係した日野市なんかも、物流企業が出てきて非常に評判が悪いんだけども、物流企業が有する日常的な居場所部分が、結構ある。広大な倉庫とかいろんな空間を持ってますから、それを日常的な居場所空間にしたり、災害時対応などにするような形でコモン化するという動きもちょっと出ています。

 それから、ポストベッドタウンシステムという言葉で、僕が使う言葉でよく出てくるんですけれども、ここでも、これは斎藤義則さんなどが提起している都市の農村化の問題ですが、都市の空き地をどんどん農場にすると。そのときに、専門農業者の私的所有ではなくて、市民が全部いろんな形で農民化する。生産と消費に関わるような形を含めたコモン化の問題があるだろうと。この都市と農村の段階をかんがえると、全面的な都市化社会になったら、たとえばそれまでの都市史はなくなります。どこを分析しても都市になるわけですから。つまり都市の新たな段階に即した方向性と再定義が必要だと思います。

 

地元の子供が地元で仕事をし、生活をする

それから、この前、ある会議で、今まで人口移動は、農村から都市へという人口移動だったんですが、それがほぼ完全に終わり、逆流をし始めてるわけです。しかし、いずれにしても大事なことは、地元の小学校や、中学校や、高校や、大学は、そこでの子どもたちが、そこで教育されて、その土地でゆくゆく生活する。生産し、生活するようなシステムをどうつくるかっていうことが、多分、課題ではないかっていうことを、提起したことがあります。

 

高齢者が地域を支えるシステム

もう一つは、人生100年時代の問題。これは、今度の本にも書きましたけれども、どう考えたって、70、80、90ぐらいの人間が、社会を支えるしかないわけです。従って、社会は若いものが、壮年が支えるなんていう幻想はさっさとやめて、70、80、90の人たちが、元気な人たちが、社会を支えるということになると。そのためには、30代、40代の苦役のような働き方でない働き方と、楽しい働き方というシステムをどうつくるかという問題が、多分、労働力の売り買いの問題としての働き方でない働き方。僕は、協同主義的な働き方って言いますが。そういうものを具体的に考えるということも、いわば空間のコモン化の問題に関わってくると思います。

 

私有化、コモン化と多様な所有形態、運営形態―温泉、入会権、講座派評価をめぐって

では具体的にどんな方法が考えられるかということで、これは、法律の問題でいえば、総有、共有、合有など私的所有とは違う所有形態が、実は、たくさんあるわけです。総有、共有、合有は細かい区別がありますが、ここでは省略しますが。これは、高山岩男さんという京都学派の人が戦時中に出した総有の問題とも関わってくるし、協同主義の問題にも関わってくる。

これらの関連を具体的に示すものに、温泉、基地反対運動における入会権のことがあります。大変興味深いことなので、具体的に研究しようと思っています。温泉は、地域の資源利用管理、「開発」などにおいて、個人、株式会社などの私的所有、財産区などの共同体所有、国、地方公共団体所有、などの所有、管理、運営の多様なあり方、近代以降の私有化、だけではない多様なありかたが実在しています。そこでは私有、コモン、再コモンのダイナミズムが今も展開しています。その温泉についても、川島武宣、渡辺洋三、潮見俊隆などの近代主義、講座派系統の研究者が私有制以外の側面に注目し、さらに戦後の基地反対運動が、入会権を対抗する論理にしていること、講座派系統の研究者がそれを理論的に支援していることにも注目したいと思います。

これは、近現代において重要な位置を占める「近代主義派」「講座派」がコモンとしての入会権を私有化、国家化を相対化するために積極的に意味づけることは、単なる近代主義ではないことを意味します。それは、近代以前の入会権を現代の私有化、国家化のもたらす問題を解決するために評価することは、再コモン化といってもよく、それは「近代を超える」側面を持つといえると思います。

 

コモン化、再コモン化のリージョナルレベル、国際レベル

コモン化の問題のリージョナルのレベル、あるいは国際的なレベルの問題として考えたいのは、ベイシックインカムの問題と、タックスシステムの問題です。

ベイシックインカムの問題は、今、ご存じのとおりですが、文字通りにアナーキストかネネオリベラルまで、ほとんどの人間がベイシックインカムの問題を出しています。ネオリベラルのほうは、福祉を削減するためには、安い金をみんなに配って、福祉は全部やめる。いうことになれば、非常に小さな政府で済むという話です。

 アナーキズム等々は、つまり、労働力の商品化による生産や生活の格差,分断のあり方から解放されるシステムとして、ベイシックインカムを考えるということになっている。このことについて非常に面白いのは、これは、僕がまだ勉強し始めたばかりでよく分からないんですが、社会的格差の問題というものをどう解決するかという問題としてのベイシックインカム。それから、いきなりですが、かなり僕らの身近に感ずる若手研究者問題も、僕は、資金の問題とか何とかって問題があるけれども、若手研究者がやっぱりベイシックインカムで生活がある程度の保障を得て、そして自由にやることが、いわば若手研究者問題の70パーセントぐらいの解決になるんじゃないかというふうにちょっと思っています。

 それから、ジェンダーの問題も。つまり、ジェンダーの問題も相変わらず、男が女に従うという根拠は、男が、ペイ労働で、ペイレーバーで、お金いっぱい取って、女性が不利な形で働いていて、従属しているという話の側面は、このベイシックインカムで解決されるだろうと。今、面白いのは、グローバルベイシックインカムというシステムが提唱されていて、この論理は非常に当たり前に面白いんですが。

 地球は、そもそも、全員のものである。全員のものであって、それが、多国籍企業などが勝手に私物化して、勝手に支配していることは問題なんだと。従って、全員のものであるから、例えば、多国籍企業を倒すんじゃなくて、多国籍企業の株を、持ち株会社としてグローバルにつくって、その配当を地球人一人一人に全部配当するという形が、このグローバルベイシックインカムシステムです。これは非常に夢想的に見えるけれども、なかなか面白いものです。

 

グローバルタックスシステムの問題

これも、多国籍企業は、税金でつくり維持されている社会資本・インフラをいっぱい使うくせに、タックスヘイブンで全然税金を払わないというふうな話になってくるわけですが、これは、情報の独占の問題も含めてですが、この問題について、特にアメリカの場合は、それはフリーにしたんですけれども、さすがにEUの場合には、とてもじゃないがということで、多国籍企業への課税。これは、法人税の値下げ競争をやめて、最低限を確認するなど。

 それから、非常に面白いのは、コロナで、むちゃくちゃにみんな予算を使うわけです。そうすると、この予算をどう補填するかという問題を考えるときに、どうするかというと、製薬会社が、利潤で一生懸命頑張ってやってるのはいいと。他方で、それを、プアな層とか、プアな地域に分配するという平等な公平なシステムとどう両立するかということで、多国籍企業に課税をして、その課税を、製薬会社と、公平な分配のための費用に回すというふうなことを考えているという話があります。いずれも、私有とコモン、自由主義と協同主よる市場と国家のデザインの多様な仕方の問題です

 

保守・革新というよりコモン化,再コモンとしての「革新自治体」

もう一つ、最後の問題ですが、こういう協同主義と自由主義の割合と関係の変化としての問題を見るという見方をすると、60年代、70年代の革新自治体といわれるものの、再定義が必要ではないかというふうに思われるわけです。

 具体的には、保守・革新というよりも再コモン化の問題。再コモン化の問題として革新自治体の問題を考えるということを考えたいと思っています。これは、例えば、フランツ・ファノンのなんかをバックにしたような。フランツ・ファノンというのは、ポストコロニアリストで、およそ近代主義ではないんです。そういう近代主義でない、つまり革新のイメージは非常に近代主義だったわけです。そういわれてますけれども、そうではない側面も出てくる。そのことが、国家や資本によるさまざまな開発への異議申し立てを、革新自治体が権力を持って止めるっていうふうな事態があります。

 これは一体なんであるかと考えたときに、都政調査会というのは、実はこの革新自治体の一番ポイントにある集団だったんですが。ここでは、例えば都政調査会はどういう人間たちで構成されてるかというと、これは僕も『戦後の越え方』の110ページあたりで詳しくふれていますが、門屋博っていう戦前の転向者とか、亀井勝一郎たちの東大新人会とか、小森武たちの上海の大陸新報とか、蠟山政道などの昭和研究会、稲葉秀三などの革新官僚です。もう一つ、面白いのが、その当時の国策パルプの水野成夫とか、戦時中の上海横浜正金銀行の堀江などが、在籍、そして援助を行っています。

 つまり、革新自治体の大本になった都政調査会のメンバーたちは、基本的には、戦前戦時のいわば協同主義のグループで、だから必ずしも近代主義でもない形での、いわば協同主義といわれる論理が革新自治体の側に存在したのではないかと思うわけです。だから、この場合も自由主義と協同主義の通時的な循環過程として考える。

 これは、僕のこんどの本を読んだ自治体のメンバーが言ってくれたんですけれども、先生のおっしゃるとおり、通時として自由主義から協同主義、協同主義から自由主義へ、共時として協同主義の関係と割合で、考えると、今は新自由主義から新協同主義の循環にあり、学生たちや市民や行政も含めてそのように展開してますといった問題と、関わっています。それは必ずしも、以前の学生運動とも革新自治体のような形ではない形で行われている。財界自体も、株主資本主義からステークホルダー資本主義へというようなことを言い始めてることとも関係すると思います。

 以上、オルタナティブが問われる内外にわたる新しい戦後システムの形成過程の重要な要素でもある、私有化、国家化とコモン化、再コモン化のあり方および市場、国家のデザインなどを、解明する方法として政治社会史からの通時共時の自由主義と協同主義の関係と割合からみてこました。これまでと、いまと、次の段階を考えるときにわずかでも参考になれば望外の幸せです

 

*本稿は、2022年3月27日にZoomで開催された協同主義研究会での報告に基づいています。なお、2022年、11月21日のブログに載せた「新たな戦争状態に対応する新たな知、新たな運動」と、本ノートの冒頭部分が、若干かさなっていますが、書いた時期が異なることもあって、内容も微妙に異なるのでそのままにしました。



文献・資料

 

はじめに

・雨宮昭一『時代への向き合い方―老年期の学問・高齢社会・協同主義』2022年、丸善プラネット社、

デヴィッド・ハーヴェイ『反乱する都市』2013年,作品社

・雨宮昭一「総力戦体制論の新展開と医療の「社会化」―自由主義と協同主義の関係と割合と医療制度」ブログ、2021年12月16日

1、

・デヴィッド・グレーバー『民主主義の非西欧起源について―「間」の空間の民主主義』2020年、以文社

・同『負債論』2016年、以文社

・トマス・セドラチェック、D,グレーバー『改革か革命か』2020年、以文社

・「特集 Ⅾ・グレーバーと自由への展望―「労働」と「抵抗」をめぐって」『大原社会問題研究所雑誌』759,760号、2022年1月、2月

・ピョートル・クロポトキン『相互扶助論』大杉栄訳、2017年、同時代社

・大窪一志『相互扶助の精神と実践』2021年、同時代社

・雨宮昭一「国際における自立的行動の普遍的正当性の歴史的根拠と方向性」2021年12月31日、ブログ

・同「農村の第二次都市化と再農村化」2022年2月分23日、ブログ

ジーン・シャープ『独裁体制から民主主義へー権力に対抗するための教科書』2012年、ちくま学芸文庫

2、

・Ⅾ・グレーバー『デモクラシープロジェクトーオキュパイ運動・直接民主主義・集合的想像力』2015年、航思社

今野晴貴ストライキ2、0』2020年、集英社新書

・ポールグルーマンショ、トーマス・フリードマン、D・グレーバーなど『未完の資本主義』2019年、PHP新書

・高柳友彦『温泉の経済史』2022年、東大出版会

・沼尻晃伸 同書への「書評」2022年『歴史学研究』105号

川島武宣、潮見俊隆、渡辺洋三『温泉権の研究』1964年、勁草書房

・丹羽邦男『土地問題の起源―村と自然と明治維新』1989年、平凡社

・岡野内正『グローバル・ベック・インカム構想の射程』2021年,法律文化社

佐々木隆治、志賀信夫編『ベイシックインカムを問い直す』2019年,法律文化社

・諸富徹『グローバル・タックスー国境を超える課税権力』2020年,岩波新書

・雨宮昭一『戦後の越え方』2013年、日本経済評論社