雨宮昭一の個人研究室

政治学と歴史学と地域の研究をしている雨宮昭一の備忘録です

20221年5月の俳句 その一

空っぽの電車虎杖の芽まっすぐに

ウイルスが変異を決めた春の午後

てんとうむしさかりててーぶるいっしゅうす

尺取虫一メートルを二分三十八秒

ともあれなんじゃもんじゃのはなざかり

壁につく線ぴたぱたぴたと夜の東風

夏風や弟子はげちゃびん師ふさふさ

柿若葉ひかり砕けし跡数多

来てみれば虹更地になりし少年期

うつむいている花つよきスノーフレーク

木の芽時つみれちくわと自由主義

谷川の山女魚の微熱雪を解く

ゆらゆらと空くみかへるしじみちょう

 

 

 

 

2022年4月の俳句

鞦韆の揺るがす空の閑かさや

古雛鼻梁丸き婆に似て

ルフレジやり終えて老春の月

弓取の力士の老け顔春たける

深呼吸今年も今年の花に遭へ

探すのは場所自分ではなし春

ライン中窓開けて春雨を聞く

人去りて春風うらら遊園地

子の家族帰る車のゆるゆると

前向きでないからいい鈴蘭の花

あの世なのかこの世なのか春の世の夢

風強し花を散らさぬ音聞こゆ

衣更え腎臓はおいていく

春驟雨人去りてあとの研究棟

春天に穴をあけたる本塁打

顔ありあり名前でてこぬ四月かな

本当のこといひて笑わる四月馬鹿

四月馬鹿通信句会費払い込む

ベランダの小さき花に小さき蜂

ウクライナの人々、ロシアの兵士によせて〉

火葬されるしあわせ放置される春

ウクライナ侵攻〉

なにゆえか今年の桜はみな白い

行く春やせめて「子供の家」に寄付

原発にミサイル二発四月馬鹿

戦争でなく事変と言った万愚節

戦争でなく行動なりと四月馬鹿

ナチがナチ打倒といふ四月馬鹿

 

 

私の俳句の三類型ー「「ただごと」俳句」「日常あるある俳句」」「アートとしての俳句」

  一か月ほど、特に準備に集中して、先月27日に協同主義研究会で「ポスト戦後国際システムと再コモン化,コモン化」という報告を終えた。激しい議論もあって色々教えられた会であった。その間俳句は思いついたことを詠んでいた。27日がすんでからは、一人吟行もふくめて俳句ばかりを楽しんだ。コロナ禍、桜満開、ウクライナ侵攻などが重なって、多様な俳句が詠めたので、この際、私なりに俳句を整理しておきたくなった。

 私の俳句あるいは俳句らしきものには、三つの類型があるように思う。第一は、日常記録、日記に近いもので、その時、その日に印象的であったこと、記憶、感情を記録したものであり、本人には大事なことだが、読者には「ただごと」俳句の場合が多い。第二は、第一のようにその時その日に印象的だったこと、ものを単にそのまま表現するのではなく、もう少し深く観察してつくるものである。しかしその深さが、既存の視角である場合は、せいぜい“日常あるある俳句❜のことが多い。

 第三は、メタファーや構成による飛躍、様々なレベルと領域と方法の境界を超える、既存の認識、日常的感覚を超える、つまり次元を超える質的な展開を行う俳句である。あるいは新しい日常感覚、未発見の日常感覚、の発見と表現であり、それらを通常、詩、詩性、アートともいう。それゆえ詠んだ本人にも「「わからない」が存在するものを身体感覚で表現せざるを得ないことが多い。その不十分性ゆえに第三の視点からも「現実的でない」「無理」といわれることが多い。また第一、第二を無条件に前提とする「現実的でない」などの評価もある。確かに既存の「現実」と異なる現実と認識を第三は発見、表現しようとしているからである。勿論私のそれを試みた俳句が単なるひとりよがりの場合が多い。

 第一、第二が俳句で第三は俳句ではないとか、第三以外俳句ではないと、いう向きもあるが、私はこの三つが俳句だと思っている。実際、第一、、第二で詠んだつもりのものが第三として読まれたり、その逆も頻繫にある。つまり相互存在であり、相互排除的なものではない。さらに俳句が「アート」でなければならないなどといううことはどこにもない、と思う。この三つがあることによって既存の「アート」に解消されない社会的広がりと深みを持った新しいアートたりえているからである。

 

 

2022年3月の俳句

一つだけ吹きあがる雪春の雪

雪時雨一途に横切る椋鳥一羽

空碧き数多の枝に梅一輪

ある寺の朱門の上の大曇天

スマホする眉をきりりと寒椿

義理などと断じていはず子のゴディバ

秋水が武蔵野の音奏で

末子入学空いっぱいのしろもくれん

コロナ禍の春風はさんでハグをする

寒鴉つまずきてみるみぎひだり

通路の真ん中にいる雪女たち

猫可愛がり冬猫残してバスの発つ

反論を一緒に浴びたスーツ脱ぐ

春の川水のかたちに風の音

猫柳答えはきっとここにない

若きより大方のことゴミ初御空

街騒を時にはもとめ日脚伸ぶ

万年の陽あたたかき縄文の丘

ひからびるこの星堕ちて行く陶酔

日脚伸ぶ手を汚さずに生きるとは

木枯らしの葉毎にひかる八つ手の葉

闇を吸いひかる緑や八つ手の葉

雪時雨弾いて八つ手緑増す

こもりいる小心者に雪の声

冬すみれの声行く道を失わせ

機嫌よく咲いているのはポインセチア

小さき黙あつめ透明中央線

犬の春走り来れる街通り

西行忌ランニング一枚干される社員寮

三メートルの壁の厚さや変電所

比良八荒抗がん剤休薬中

なめくじを尾から飲み込む蟇蛙

2022年3月17日に以下追加

子供一人殺したら三回死ねプーチン

冷徹な狂気に刃物プーチンに軍

国民族で生きていないのに戦火難民春冷えて

狂気には外すにしくなしキエフ春冷

雪の上に雪降る音や雪の音

春暑し河津桜も散り初む

春暑し椿の花のつやつやと

行き止まりに梅の大木花盛り

さんしゅゆの蕾黄に立つ春の立つ

以上。

 

 

 

 

 

悲惨な市街戦と「傀儡政権」ーロシアのウクライナ侵攻によせて

 ロシアのウクライナの全面支配をするための侵攻がおこなわれている。漏れてくる映像でしか判断できないが、ウクライナの銀行への現金引き出しの行列、身一つの地下鉄駅に避難、などを見ると、ウクライナの市街戦での戦闘体制、必然的に住民を巻き込む大都市の戦闘における住民の長期的で持続的な避難や配給の体制ができていないようにおもわれる。もしこのままで戦闘が始まると、実際、ウクライナ側が反撃するであろうからはじまると、本当に悲惨な事態が現出すると予想される。

 この時、思い出したのは、第二次世界大戦において、戦闘準備ができていない、フランスにナチスドイツが電撃侵攻し、ほとんど戦闘なしにパリが占領され、抵抗のリーダーたちは亡命し、ロンドンに亡命政権をつくり、国内では「傀儡」といわれたヴィシー政府がつくられた(最近の研究では必ずしも一方的な傀儡ではなかったことがいわれている)。そして国内では戦時中も通常の戦闘はすくなく、レジスタンスの抵抗が行われ、数年のうちにナチスドイツが崩壊し、間髪を入れずドゴールなどの「亡命政権」が動き、フランスを「戦勝国」にして「五大国」として戦後に至っていることである。

 都市における戦争は逃げる空間が少ないこともあって、大変に悲惨な流血も含むJ事態を生じる。したがって、たとえば現在の抵抗している政治リーダーたちは亡命し、国際的に活動し、国内では「無抵抗」であるが占領者に必ずしも全面的に従属しない芯を秘めた、それゆえ「裏切者」などといわれてもめげず「傀儡政権」をつくり、住民の生命と生活をまもること。住民は非暴力の抵抗と非協力をおこない、占領国本国、および国際的な反占領の動きの中で、やがて「解放」され「亡命政権」を中心に再建が始められる、というシナリオも考えられる。

 ロシアは冷戦期の最盛期の復活の夢を、アメリカは「白人天国」の復活の夢を抱き、それぞれ没落を自覚した動きが、半数に近い国民の意識にあり、それがプーチンとトランプの基盤にある。したがって、プーチンはもとより、アメリカも問題を解決する力はないとおもわれる。こうした没落しつつそれに抵抗する覇権国家ではなく、覇権国家を卒業して、戦争をしない、できない憲法体制をもつ日本などが、リアルに柔軟に原則的に動いて当面の悲惨な状況を回避し、中長期的には、新しい相対的に非覇権的な国際秩序を創るイニシアチブを持つことは可能であり、客観的に期待されていると思われる。

 

農村の“第二次都市化”と“再農村化”

 長男が山梨県の深い山里に古民家を得て改装している。その集落50人ほどの人口の3分の1ほどが、この1,2年の間に都会から移って来た人たちだという。この傾向は多少はあれ全国に起きていることは周知のことである。私もいくつか見たり聞いたりしてわかったことは、移住してきた人たちには、都市的な感性と関係で、しかも都市化をくぐって残っている農村の共同性を自覚的に大切なものとして、生活している人が多い。

 私は、最近のブログでも、著書でも。これまで、既存の都市の「過疎化」などによる事態を、それまでの都市の豊かさをふまえて「農村化」すればよい、とのべてきた。他方農村は個人化、混住化、兼業化など「都市化」した、とのべてきた。つまり農村の都市化と都市の農村化であり、田園都市構想の再位置ずけである。

 上記の事態を見て、農村の都市化は、個人化、混住化、兼業化などの第一次都市化に続いて、その上に、都市からのかなり多数の移住者とその移住者による地域生活の「都市化」という新しい事態を、「第二次都市化」といえるだろう。さらにその移住者たちが、都市で失われた「共同性」を大切に生活しようとしている点では「農村の再農村化」といってよい。

 以上のことは、都市における「都市の農村化」についても、それを経た「都市の再都市化」がまだイメージは結べないが展望できるとおもわれる。そのような新しい「都市」と「農村」の関連で「田園都市構想」などが深く、再定義されていく、と思われる。

2022年2月の俳句

 3月の協同主義研究会での報告準備のために文献や資料を読んでいる毎日である。詠んだ俳句は以下の通り。

猫だまし猫に試して寒の入り

猫だまし猫迷惑さふに大寒

サンマリノの城の上なる大虚空

プロバンスの農夫光を収穫す

元日の快便いい年だ

裏方の晴れ舞台螺子締め終わる冬

金柑を啄む鵯やまあいいか

子供を子供扱いせず枇杷の花

大寒や袂に継ぎ当て着る黄半纏

「一月の川」光流れる春三月

さびさびと心骨衰える面白さ冬

あたたかきラインの一声寒の入り

さらさらと狭庭立ち上ぐささめゆき

眠りゐる表情温し甲斐連山

多少あれ友らみなぼける冬我も

砂に立つ二個の目のみの鮃の不安

蛸の正しい姿勢はどれ秋の海

冬朝日桜裸木隴たける

雑踏にあることうれし疫禍中断冬晴

冬の陽を吊り上げていくスケートボード

遊撃手二人縺れる草野球冬

杉の木になるまで抱える杉の大木

よちよちと幼なに追はれ鴉スキップ

訝しげに顔をそむける冬薔薇

ごきぶりのいぶかしげな目と出会い

おおくしゃみして何も変らず

あくびする音の真中を年流れ

春眠を踏みつけていく韃靼人

福は内福は外と豆を撒く

はむかった子等皆傍に喜寿の冬

一人居の煤逃げばかり街温泉

茱萸の実を紅梅と見まがふ早探梅

武蔵野の真青なる空帰り花

以上。