雨宮昭一の個人研究室

政治学と歴史学と地域の研究をしている雨宮昭一の備忘録です

私の俳句の三類型ー「「ただごと」俳句」「日常あるある俳句」」「アートとしての俳句」

  一か月ほど、特に準備に集中して、先月27日に協同主義研究会で「ポスト戦後国際システムと再コモン化,コモン化」という報告を終えた。激しい議論もあって色々教えられた会であった。その間俳句は思いついたことを詠んでいた。27日がすんでからは、一人吟行もふくめて俳句ばかりを楽しんだ。コロナ禍、桜満開、ウクライナ侵攻などが重なって、多様な俳句が詠めたので、この際、私なりに俳句を整理しておきたくなった。

 私の俳句あるいは俳句らしきものには、三つの類型があるように思う。第一は、日常記録、日記に近いもので、その時、その日に印象的であったこと、記憶、感情を記録したものであり、本人には大事なことだが、読者には「ただごと」俳句の場合が多い。第二は、第一のようにその時その日に印象的だったこと、ものを単にそのまま表現するのではなく、もう少し深く観察してつくるものである。しかしその深さが、既存の視角である場合は、せいぜい“日常あるある俳句❜のことが多い。

 第三は、メタファーや構成による飛躍、様々なレベルと領域と方法の境界を超える、既存の認識、日常的感覚を超える、つまり次元を超える質的な展開を行う俳句である。あるいは新しい日常感覚、未発見の日常感覚、の発見と表現であり、それらを通常、詩、詩性、アートともいう。それゆえ詠んだ本人にも「「わからない」が存在するものを身体感覚で表現せざるを得ないことが多い。その不十分性ゆえに第三の視点からも「現実的でない」「無理」といわれることが多い。また第一、第二を無条件に前提とする「現実的でない」などの評価もある。確かに既存の「現実」と異なる現実と認識を第三は発見、表現しようとしているからである。勿論私のそれを試みた俳句が単なるひとりよがりの場合が多い。

 第一、第二が俳句で第三は俳句ではないとか、第三以外俳句ではないと、いう向きもあるが、私はこの三つが俳句だと思っている。実際、第一、、第二で詠んだつもりのものが第三として読まれたり、その逆も頻繫にある。つまり相互存在であり、相互排除的なものではない。さらに俳句が「アート」でなければならないなどといううことはどこにもない、と思う。この三つがあることによって既存の「アート」に解消されない社会的広がりと深みを持った新しいアートたりえているからである。