雨宮昭一の個人研究室

政治学と歴史学と地域の研究をしている雨宮昭一の備忘録です

政治史と政治社会史、中央と地域、政局とシステム、

 最近、といってもこの4,5年私の総力戦体制論、潮流論、地域政治、自己革新論など、論争的に90年代にとりあげられたのとは異なるが、それらを前提として、編成しなおしたり、新しい展開をしている本や論文が、中堅や若手の人から送られてくることが多くなった。できるだけきちんと読んで返事とお礼をしてきているが、遅れがちである。連休前に来た作品もかなり多く、少しかかりきりになっている。今回は若手の研究者の作品についてふれたい。

 渡部亮(東大大学院博士課程院生)さんから「昭和新党運動の重層的展開ー社会民衆党の「国民の党」構想に注目して」『史学雑誌』2023年2月、および「選挙粛清運動の二つの顔-社会大衆党の議会観を手掛かりに」『日本歴史』4月、の二つの作品をいただいた。後者は35年からの選挙粛正運動と37年から40年における大政翼賛会形成とのこれまでのその関連を明確にしていない研究に対して、社会大衆党内の無産政党として、議会主義を国民大衆が参加する「国民の党」とする方向性と、陸軍統制派や官僚との連携という二つがあり、その両者が、選挙粛正運動から37-40年の政治過程へ引き継がれる、と説得的に述べている。

 前者は、30年代からの社会の大衆化への対応として、既成政党を中心とした政界再編のうごきと、それに対抗する指導者原理などよる新党運動があること。この新党運動が40年代まで継続したことは、政局やミクロの視点ではなくマクロの視点、すなわち名望家を中心とした旧来の政治では対応できない現状変更の必要性、があり、新党運動の、中央における退潮時にも、地方レベルでは、衰えないことを、説得的に展開されている。私は「近衛周辺」として明確に整理しなかった、亀井貫一郎の「ドイツ仕込み」の「新体制新党」と有馬頼寧の「農協を中心とした国民組織論」と、それらの動きの指摘には大変教えられた。

 個々の政局に自己完結しない視点のおきかた、中央と地方、とくに地方にあらわれる政治動向の重視など全体として、大変に説得力のある、新しい実証と分析だと思われる。それは、私のこれまで表現してきたことと、響きあっており、今後議論していきたいと思う。それに関連して、何点かを上げたい。

一つは、選挙粛清運動と翼賛体制あるいは戦後体制論との連続性、継続性についての茨城県における既成勢力の自己革新(『総力戦体制と地域自治』 247ページ)、さらに選挙粛清運動が、「個人選挙」から「団体選挙」への移行をおこなったこと(『戦時戦後体制論』179ぺーじ) などとの関連。。

二つは私は30年代から、50年代までの流れとして4潮流を設定し、今回の玉稿に関連するするところは、陸軍統制派、革新官僚など上からの協同主義の特徴を持つ「国防国家派」と下からの協同主義の特徴をもつ「社会国民主義派」の連携と区別などを上記の本や最近上梓したものでふれているが、それらとの関連。

三つは      「現状変更の必要性」を、作品では政党史、政党組織論、政治史として、見事に表現されていますが、そのことと私が行ってきた社会を独立変数とする政治社会史との方法的、具体的関連 。

 

       

その地域に住む人々の生命と生活を最上位において停戦を

 ロシアウクライナ戦争は、両方に死傷者が10万人以上の被害を生じ、一層し烈になっている。しかも両者ともに領土のどちらかへの帰属確定ということを主張し、ゼロサムゲームとなり、停戦,講和の見通しは全くついてはいない。

 この戦争は戦後国際体制の核心である戦勝国体制の崩れ、それと核兵器によって、従来の無条件降伏モデルが使えないものであること。それゆえ、国家や国家主権、国家の領土、「民族」などを最上位に置く、独立変数とする認識を、変えないと問題が解決できないこと。それゆえにその地域に住む人々の生命と生活を最上位に置くこと、それを独立変数にし、国家、国家主権などを従属変数にすることを述べてきた(「新たな戦争状態に対応する新たな知、新たな運動」『獨協大学地域総合研究所紀要』2023年3月、ブログ2022年12月2日。「ポスト戦後システムと再コモン化・コモン化」同前、ブログ2023年1月24日)。

   今度の戦争に即していえば、ウクライナ,ロシアへの領土帰属が争点になっている地域の未来とその形態をきめるのは、ロシア政府でもウクライナ政府でも、ナトーでもないこと、反ナトー勢力でもないということである。その形態には自治区自治共和国特別区、など多様に存在し、上記の原則に従い知恵を集めればたくさん考えられるだろう。そして、国際社会は、その自主的決定過程も含む自治を保障することである。

 以上によって領土帰属に帰着し、事実上どちらかが、決定的に壊滅されて戦勝国が、敗者を文化的にも改造するという無条件降伏モデルに無自覚に、あるいは事実上進んでいる非常に危険なを状態を変えることが可能になると考える。

  

 

2023年5月の俳句

その一

虎杖の伸び立つ赤芽太平洋

春月かうかう忽ち異界ベッドタウン

沈丁花デモの帰りの一葉坂

気管支がおもいだしてる五月晴れ

夏来たる虻と蜂とを取りに行く

街賑やか血圧計と五月晴れ

その二

うぐいすのさえずり稚さな舟とめる

         いす

重患が押す軽患の車椅子緑立つ

夏の波光を分けて来たりけり

ぬいぐるみ同じ瞳をして買われゆく

天網の漏らす小物や吾亦紅

春憂をあつめて堕つる椿かな

その三

さえずりの去りて残りし葉の揺らぎ

エンバーミング足らざる面や走り梅雨

釣り上げしかさごの含羞リリースす

白単衣青橙一筆しゃがの花

花ごとの小さき欠伸花曇り

白光に溢れる花の影を漕ぐ

断崖に溢れる花と舟一つ

カヤックの桜ツアーに花花花

その四

サボテンの不当な太さ植物園

けばけばしい赤こそよけれアブソーブ

正義といふ名前の椿赤と白

風光る表皮やはらかメタセコイア

SLの湯気を貫く日の光

無人駅あわあわと咲くあけびかな

ベランダに富士撮るをとこ雪月花

その五

桜東風バギーの幼なの吹かれ顔

中国の人と隣に釣るうぐい

どすのきくラップ多摩川夏まつり

川急にうぐいすの声成熟す

くるぶしが話をしているいぬふぐり

新樹光あとは野となれ山となれ

オフライン銀杏新樹の並木道

最初のごみごみ袋の包み紙四月馬鹿

夕牡丹研究人に余生なし

馬車の馬瞳の中の夏の空

シーソーに座っている五月来る

豊満な肢体の忘我八重桜

以上

 

 

2023年4月の俳句

その一

青い空白もくれんの白い花

葉桜と盛りのあはひ華やぎて

合格す百花繚乱白もくれん

花びらは人を選ぶと四月馬鹿

一木ごと異なる空持つ植木市

海臨む花万朶青春晩期

気立てよきIをんながゐたり桜雨

その二

時計止まる時間無き空間春

白の正気白の悦楽白もくれん

白の狂気白の陶酔白辛夷

基礎疾患まみれは全疾患四月馬鹿

春灯す小庭の土のやはらかく

傘寿人踏み出すいなや花吹雪

裏返る鴉のだみ声四月馬鹿

その三

殻動き次に足出るがうなかな

殻回り肉のせりだす蝸牛

きらきらと蝌蚪食む青大将の真昼

海草(くさ)の香と光に噎せて磯遊び

それぞれのひとを見ている桜かな

花やはり生殖器なりさくらん

僻芽小花深紅野生のちゅうりっぷ

その四

傘寿人またも一会の桜かな

みほとりに母植えし百日草の花の列

シーレ見る人みなしなやかに春明かり

風もなく音もなく飛花深大寺

きむずかしいところへ行かぬ柳絮

真っ直ぐに降るをためらふ雪のあり

その五

春一番空には動く芯のあり

女子言葉なき談笑や風光る

春の子の泣き出す前の間のながし

よくいきている全「雑草」のとりがたし

菫の花にてらされ野道行く

花ごとの小さな欠伸花曇り

白光の溢れる花の影を漕ぐ

花びらの山と谷いくねずみの子

春光を啄む鶺鴒深大寺

断崖に溢れる桜花舟一艘

捕食者に毒蜜蜂に蜜ジギタリス

 

 

 

 

占領史と戦後史、方法としての体制論=システムと言語

はじめに

 3月18日に占領・戦後史研究会が法政大学で行われた。テーマは、小宮京さんの『語られざる占領下日本ー公職追放から「保守本流」』(NHKブックス、2022年)の書評で、内容に即した竹内桂さん、「占領史研究」から近・現代史、との視点からの出口雄一さんの報告があり、討議があった。その時感じたことを発言したが、それを少し敷衍してメモをしておきたい。

1,体制=システムとしての戦後をどう考えるか

 この本の結論部分で、小宮さんは占領下の公職追放は「占領下の日本政治に大きな影を落としている」、占領期=戦後日米関係の起点、戦後日本の原点との趣旨を述べている。この本では、占領軍の内部諸勢力と日本の政治家との局面,局面の反応関係から、上記の結論を導き出していて説得的である。しかし占領や戦後は、政治の局面だけでは成立するわけではない。政治以外にも経済、社会、国際関係などの諸領域の関係構造で成り立つ。

 私はたとえば、戦後の国際システムは、戦勝国体制と冷戦体制であること(『占領と改革』岩波新書、2008年)を指摘した。いうまでもなく戦後は戦勝国の支配する、あるいは決定的な影響力のあるシステムである。戦後が終わるとは、戦勝国同士が軍事的に対立し、例えば核戦争に至る様になる、つまり戦勝国体制の崩壊である(雨宮昭一ブログ、2022年11月21日)。占領はその戦後体制の一過程、一局面である。

2,占領するものと占領されるもの、システムへの規定性

 いうまでもなく、占領は戦争の継続でもあり、軍事的な敗戦の後の一期間という意味でも戦後システムと占領は区別されなければならない。その一つの視点は、占領するものと占領されるもののシステムの全過程における、規定性とその強弱である。戦勝国体制でも占領の後の占領地域の歴史の多様性として現れる。このことは、占領する側の規定性が一方的でないことを示す。つまり占領される側の主体性の重要性である。

 その視点から見ると丸山真男宮澤俊義の「八月革命説」は占領される側の主体性を前提にしているといってよい。それが、規範的あるいは法律論からするものであっても。さらに具体的には八月革命説の前提になっている、ポツダム宣言を受け入れたのは日本側であること、さらに具体的には自由主義派という日本の政治社会潮流であった(雨宮前掲書)。この視点から考えると戦時体制と戦後体制の連続性を指摘した総力戦体制論は、規範や法律論とことなるが、構造の連続性を重視する点では、占領される側の規定性を重視する“共通性”を有する。興味深い論点である。これはこの本の政治局面からの“占領決定論”から浮かび上がったものである。

3,言説論とその後

 小宮さんのこの本の特徴の一つは、公職追放保守本流吉田学校、などの言葉の使われ方のこれまでの評価を、当時のはじめて使った人、使った人、使われ方に厳密に即して使われた文脈の正確な再現を図ろうとしたことである。

 この点について三っつの論点が浮かび上がる。一つは、この本では、自覚的に関連されていないが、これまでの言説論とヘゲモニー論と上記の特徴との関係である。これは政治家、官僚、評論家、研究者に至るまで、言葉は中立的では、有り得ない。言葉は効用を自覚的に、時に無自覚に意図して作られ、使われる。かくして言葉を通じての同意と納得と行動を獲得する争いがヘゲモニー争いであり、政治空間である。この本はこの方法に沿っているとも見えるが、その前提としての発話、使用の正確な再現を目指しているということなのかもしれない。

 二つには、もう少し大きい問題であるが、この間の認識問題において、構造主義から社会構成主義への変化があった。これは言語論的転回ともいわれ、つまり社会は、構造が決めるのではなく、言説を通じて構成されるものであるとの認識である。この流れに私もコミットしたが、この数年、それはポピュリズムに現れるポストツルース、フェイクと区別できない問題を、どう考えるかを考えてきた(雨宮『時代への向き合い方ー老年期の学問・高齢社会・協同主義』2021年、丸善、77頁)。つまり社会構成主義は、事実に即しない言説もそれが、同意を獲得して社会がその方向に動いたという事実を、社会の構成、とするから、フェイクを否定する根拠をもてないからである。したがって、言説とそれによる社会の構成、あるいは局面局面の言葉の影響とことなる次元が必要と思われる。それはそれらの関係の集約された構造、システム、体制というものの客観的な存在を設定することである。そのことによって、個々の言説の、客観的位置づけと方向性が確保される。いうまでもなく単なる構造、システムではなく、言語論や、構成主義をふまえた、螺旋的なそれであることはいうまでもない。こうした言語論の再構成、再定義の方向とともに、フェイクを個々の事実で検証することも重要であり、小宮さんのこの本などはそれに貢献している。もちろん個々のことばや、状況にシステム、構造は解消されないことは前提である。

 三つめは、言説生産の問題である。言説の分析、言説状況の再現だけではなく、自らの分析にそくして、言説は生産されてきたし、それ抜きに社会は存在しない。それは、上記の新しい構造、システム、体制、言語論からもおこなわれるが、自らの規範からも行われる。実際にたとえば第二次大戦戦前体制における吉野作造、戦時体制における三木清、戦後体制における丸山真男、蠟山政道、高坂正尭、などが、それぞれの体制の言説生産をおこなってきた。そして、その体制が崩れる時その言説も社会的力を失う。その言説が社会的力を失う時、その体制は崩れる。小宮さんのこの本の内容は、この言説生産の問題も関連させると、さらに生産的な展望が開かれると思われる。。

 

 

 

  

2023年3月の俳句

その一

鮎並の獣めく引き穴釣り二月

北浦に釣りしたなごの銀貨ほど

鮃の縁側黒霧島の湯割り

行く春や烏の口の半開き

グレン・グールドのバッハ春の潮

黙食の貼り紙椋鳥やかまし

その二

旬の詐欺中銭持ちの高齢社会

売り切れてピーナツを撒く鬼やらい

春の雪見え見え見えのみえかくし

煩悩をつぎつぎ卸し春の坂

煩悩をおろした果ての春の坂

問わるる人のことば美し鎌倉の春

きさらぎのひかりのなかにかぜうまれ

黄の点点点山茱萸の蕾

梅は二分咲きに限るといふをんな

まんさくのはなゆれるもあらもあら

水の音晴天の色いぬふぐり

いぬふぐり猫のふぐりを見送れり

その三

春の蝶放ち放心大庇

春月や縄文土器のある畑

最後の段外しこらえて春の土

浮かれ猫おつかれでしょうご飯をどうぞ

ギター弾く爆撃音を払いつつ

級友の肺を患ふ母に芹

一秒を三秒かけて春の雪

中吉と身に余ること初神

その四

春の闇兄の遺せし裸婦の像

犬小屋に干からびている春の闇

消しゴムでまた消している春の闇

看護師の手のあたたかし春一番

春一番療養室みなスニーカー

春一番長距離ミサイル売りに出る

三片は舞い上がりたる牡丹雪

年男天動説を言ってみろ

昭和には会社句会があった春

はからずも検索記事が読み初め

その五

葉の密集こそが命の吉祥天

冬空に向かって伸びる藤の蔓

裸木の枝の実在枝垂桜

植物園薔薇の全滅潔し二月

更地前すでにあやふや初御空

じいさんの誕生会はオンライン

蛸食ふて天動説を説くをとこ

集落に全世代ありしどんど焼き

初釣りのカヤック転倒起き上がる

講義準備間に合はぬ夢春立ちぬ

戦前の最後に生まれまた戦前春

じぶんのことのみのをとこに春の風

よっぱらいばかりになったので春の歌

鰯襲ふいるかを襲ふ鯱の群

 

 

 

新しい研究段階

 研究には新しいパラダイムの提起、論争、定着、新しいパラダイム、という循環があるが、その定着と新しいパラダイムの間には、そのパラダイムに正確に内在しつつ、新しい提起を行う段階がある。最近いただいた及川英二郎さんの大著『現代日本の規律化と社会運動ージェンダーと産報・生協、水俣』(2022年、日本経済評論社)はそのような意味を有しているようにおもわれる。

 及川さんは、フーコーによりながら、近代は言説や制度に従う主体の誕生であること、そこには、個人としての主体という普遍性があること。しかし、それがよい労働者になるという単一の尺度による均一化に帰結した、としている。それがジェンダー差別や障害者差別になる。それを克服するために、上記の普遍性と主体性を保存しつつ、「よい労働者」=「普通の人」とそれ以外という差別のある社会から、両者がというより「それ以外」のひとが対等にあることが「当然」である社会という「新しい共同性」「オルタナティヴ」を提起する。

 そのために戦前戦時戦後にわたって、具体的には戦時期の産業報国運動、戦後の生協、水俣病患者、を実証的に分析し運動と意識における「新しい共同性」の析出に一定程度成功している。それは、戦時戦後の連続論、総力戦体制論、政治社会潮流論、方法としての政治社会史、などによるこの3,40年前からの歴史学や人文社会科学のパラダイムの変化を正面から受け止め、きちんと理解して、そのパラダイムに新しい知見を加えることに成功した価値ある研究といってよい。それゆえに部分的とか、国家論がないとかの批判は意味を持たない。

 この研究で新たに析出された問題を、その新たな地点から、他の領域、方法などとの検討をすることが生産的だと思われる。その論点をいくつかあげてみたい。まずその一つは、戦前戦時戦後現在に及ぶ、分析の幹にあたる「潮流論」についてである。及川さんは、自由主義派、国家社会主義派、日本主義派の三つに分けられた。私は反動派、社会国民主義派、国防国家派、自由主義派と4潮流としたが、その社会国民主義派と国防国家派を国家社会主義派にまとめられた(本書100ページ)。これから議論しなければならないが、第一点は「国家社会主義派」はナチスと同じ名称だが事実のおいてそれは存在しているか。第二は、及川さんの「新しい共同性」を考える場合にも、戦後の諸運動との連続においても上記の二潮流の違いは、意味をもたないか,などの議論は新しい研究の糸口になると思われる。

 運動と意識に焦点を当てて析出した成果を様々な領域から議論することがたくさんある。それが同時に個々の領域や局面だけではすまない、全体の構造、オルタナティヴの戦略的展望の究明になろう。たとえば横浜市の60年代70年代の生協における主婦の実践が「新しい共同性」を表現したとの貴重な指摘も、小金井市でも共通性があるが、60年代70年代のベッドタウン化の全国的展開のなかで、企業戦士と専業主婦という性別役割分業が、60パーセント以上になる歴史的に初めての状況との関連、さらに小金井市では、80年代以降そうした主婦の運動が急速に後退する。それは、主婦たちが、パートもふくめ職場に出て行ったからであること、さらに主婦たちが、解決しようとした問題が、行政によってとりくまれたり、企業の指定管理者制度、女性も多く参加しているNPOなどによりおこなわれることなどとの関連。さらに産業のソフト化による、男女の働き方の差異の減少との関連、しかも高齢化の現在、団地や住宅地の高齢女性たちが、再び地域をささえるという、私がやや抽象的にかんがえていた、人生百年時代の社会を支えるのは高齢者だ、を具体的に先取りするようなことの関連、など。

 水俣についても、運動、意識の点で貴重な指摘がある。その上でその側面を持続発展させるためには、それを市長などとしてある側面からすすめた、会社でも漁業地域でもない農業地域の名望家系統の自民党系地域政治家であったことなども、議論されるだろう。

 さらに「新しい共同性」についても、戦後日本社会の企業社会で、日本人、男性、正社員、健常者、壮年が主人の社会から、上記以外の日本人以外、女性、非正規社員、障害者、若者、高齢者も主人公になる社会に移行すること。そのためには、商品化と互助や連帯、資本とコモン、自由主義と協同主義の共時通時の関係を考えること,、両者における働き方、などの私の指摘との議論は研究段階を一歩進めると思われる。