雨宮昭一の個人研究室

政治学と歴史学と地域の研究をしている雨宮昭一の備忘録です

中間団体、結社と協同主義 獨協大学「地域総合研究所紀要」2023 年 第 17 号

はじめに

筆者は、現在の問題の解決の仕方として、資本主 義、自由主義全体主義社会主義、ファシズムと 異なる協同主義を考えてきました。そしてそれを四 潮流論とか総力戦体制論などから、戦前、戦中、戦 後、ポスト戦後にわたって考えてきて、ご存じのと おり、自由主義と協同主義の共時通時における関係 性と、その螺旋的な展開ということを基本にして、 政治、社会、制度、戦争などから検討してきました

(雨宮昭一『戦時戦後体制論』岩波書店1997 年。 同『占領と改革』同、2008 年。同『日本近現代史を どう見るか』岩波書店2010 年。同『戦後の越え方』 日本経済評論社2013 年。同『協同主義とポスト戦 後システム』有志舎、2018 年。同『時代への向き合 い方―老年期の学問・高齢社会・協同主義』丸善プ ラネット、2021 年、など)。今回は憲法の問題を考 え、そこから経済の問題も考えたいと思います。

 

1.共和国型憲法自由主義憲法の経済システム・ウクラード

 まず直接のきっかけは、11 月の協同主義研究会で報告してくださる予定の水林彪さんが、『法律時報95-82023 年、に書かれた「共和国憲法の神髄」という論文以外にも、パソコンが全部あふれるぐら いの論文を送ってきてくれて、それを読むだけでも大変だったんですが、それも一応読んで、いろいろ 考えることがあったので、そこから問題を出していきたいと思います。

 水林さんによると、日本国憲法の性格をどう考えるかという問題は、共和国型と自由主義型に分かれ ると。樋口陽一さんなどは、日本国憲法自由主義 型で、国家からの自由が非常に重要だということを 強調するということです。ところが、水林さんは共和国型だといいます。
 自由主義型というのは、もっぱら中間団体・職能組合、結社の国家による解体ということで、その大 きくなった国家からの自由を非常にいうのは自由主 義型で、それに対して共和国型は、国家による社会 権力の規制および人権ということと、それから結社 中心の市民的公共権力が共和制型の憲法であると。 この共和制型の憲法は、フランス人権宣言、日本国 憲法、ドイツ社会国家などに連続しているというお 話です。
 これを見て、自由主義と協同主義という関連でいうと、自由主義型はまさに、資本主義的な自由主義、 資本主義的な解釈の憲法に対して、共和国型はどちらかというと協同主義に非常に響くところがありま す。このことは面白くて、前記『戦後の越え方』(220 頁)でちょっとふれた、我妻栄日本国憲法は、協 同主義による憲法であるというのを、1948年にいっているんですね。つまり新憲法になろうとも、戦時 中の協同主義的なシステムは継続していると。
 しかし、水林さんも強調している同業組合は、民間のギルドも含めて社会的権力で、その社会的権力 を組織したのが絶対主義政権の社団国家だと。その社団国家の、社会的権力である同業組合を解体し、 樋口さんは結社もついでに否定したといいますが、それも議論をしなければならないと思っています。 後で言います。
 ここで、水林さんはコルポラシオンとしての同業組合、ソシエテを構成する結社の両方を、自由主義
型の国家が否定したと。これは、たぶんトクヴィルの主張と共通していると思います。対して共和国型
では国家は人民の抑圧してきた社会的権力である同業組合は否定したが結社は否定せず、人権を抑圧す
る社会的権力に介入するという議論をしているということです。つまり自由主義型は、社会の中の、分
かりやすくいえば、資本団体のようなものに対して介入しない。ところが共和国型は、同業組合にやっ
たと同じように、資本に対しても介入できるという解釈だっていうのが共和国型だということです。
 ここでまた面白いのは、現実の共和国型の、つまり人権宣言の辺りに共和国型の憲法ができて、その 背景は何かというと、独立自営生産者社会で、これは水林さんの議論でいうと市民的オイコス経済であ る、というわけです。そしてそこでは、さっきも言ったような人権がポイントになる。ところが自由主義 型は、資本主義社会であると。経済は資本主義社会で、それはオイコスではなくてポリティカルエコノ ミーであると。
 ここですごく面白いのは、つまり自由主義型の場合には、債権の優越というふうに、債権が中心にな る。債権が中心になることは、労働する権利は人権の問題として共和国型は考えるけれども、自由主義型は、それは債権、債務関係として、労働力を商品として扱うと。それゆえ共和国型はそれを民法に、自由主義型は商法として扱うと。


2.現代市民公共権力の経済・ウクラード、 そして現代における協同主義の経済、社会

 だからこの問題を考えると、例えば、その現代市民公共権力というのは、水林さんたちがいう共和国 型なんですが、そのウクラードは何か。ウクラードというのは経済制度などといいます。つまり原始共産制とか、奴隷制とか、封建制とか、それから資本主義制っていうふうな、大きな社会的生産様式の変化があります。その中のさまざまな生産形態の、さまざまなあり方をウクラードといいます。
 だから例えば、ここでいう独立自営生産者社会も一つのウクラードでありますが、この共和国型が可
能であった独立自営生産者社会が実は、それは市民的オイコス経済だというふうに水林さんはいいます。
しかし独立自営生産者社会はすぐに変わるともいっていますね。つまり、これは産業革命によって自営
農民が地主と資本家と労働者に分けられる。だからつまり分かれるっていうことで、もうすでに資本主
義社会になってしまうと。かつその中で、現在の共和国型が依拠するウクラードは何かという問題は避
けて通れないんじゃないかと僕は考えるわけです。
 そのことは、もう少し振り返ってみれば、現代における協同主義の経済とか社会は一体何があるか。 つまり考え方とかじゃなくて、経済的なウクラードみたいなものはなんであるかをちゃんと考えなけれ ばならないと、いうことになります。
 これについては、少なくとも僕は、独立自営生産者社会に存在したような、個人とソシエテの有機
な結合とか、互助と連帯の経済と社会があるということと、資本主義的な社会が複合しているものとし
て、現代の経済社会があるというふうにいってきたんですけれども、それをもう少し具体的にしたいと
思っています

ゲノッセンシャフト
 それは、今までのこの研究会の議論といくつか関 係することでいってきたのは何かというと、共同体 と利益社会―ゲマインシャトとゲゼルシャフトとの 問題。その中で実はそのふたつと異なる自立した個 人による非営利的団体、社会としてのゲノッセン シャフトが存在し、それが、協同主義の基礎にある と考えてきました。
 それから、最近の本(『時代への向き合い方』)や 研究報告で言いましたけれども、よく見ると、今の 資本主義社会といわれるものは、実はそんなに完全 に資本主義の論理に、全部支配されているとか、全 部それが隅々まで行き渡ってるということが、そん な自明なのか、それは違うんじゃないかと。

多様な所有形態
 これは、僕は温泉のことを調べてすごく面白かったのは、実に多様な所有形態があるんですね。制度
といわれますが、全部が私有であるのではなく、実は公有とか、総有とか、共有、と非常に多様な所有
形態があって、これは例えば入会権なんかの問題もそうです。この前、岡田松悟さんが静岡の町内会が今も入会権を持っていて、それで何十万円もお金が 入るとか、信じられないけれども、これが実際に存在するわけです。それで、そういうことにも実は協 同主義的な契機はあるんではないかと考えています。 そういう見地からは、コルポラシオンとソシエテ、 は友敵関係ではなくその向こうがみえるでしょう。


地域社会と混合経済

 以上のことは、地域社会においての「混合経済」としても展開します。斎藤義則さんが、2023 年 10 月 29 日の当研究会の報告や著書(『都市の農村化と協同主義』2022 年、有志舎)で、古くは資本主義 経済と社会主義経済の混合、最近では公的セクターと民間セクター、民間による再開発を公的セクター がそれを補助する、ということをいわれるようになったが、地域経済の実態に即して、その再定義を 主張しています。

 すなわち、地域経済は、「自給的経済領域」「共的経済領域」「公的経済領域」「市場的経済領域」が混 合し複合して、構成されているとのことです。

 

日常生活における時間空間において

 それから、これも最近書いたものですけれども、現代社会における日常生活、僕たちが職場や地域に おける日常生活において、時間、空間というものを考えるときに、これはデビット・グレイバーが言っ たんですけれど、例えば職場でペンチを貸してくれと同僚に頼むんですね。それで、同僚がペンチをそ の人に渡してやるという行為は、果たして資本主義的な行為なのかと。実はそうではなくて、そこでは 商品としての労働力交換ではない時間と空間があると。実はそういう商品としての労働力交換でない時 間と空間が日常生活の中で非常にたくさんあるんではないかと。

 

私有とコモン化・再コモン化

 それから一番最近に書いたものでは、私有とコモン化、再コモン化の問題。全てが私有の原理に基づ
いた時間、空間ではない空間が実はたくさんあるし、それをかなり意識的に広げる必要があるという問題 を話したのがこれです(雨宮昭一「ポスト戦後システムと再コモン化、コモン化」『地域総合研究所紀要』 2023年3月)。

 

社会的連帯経済

 それから、社会的連帯経済の問題。つまり営利による経済ではないというもので、営利による経済で
なくて相互扶助の原理に基づく経済というのは、これは結構、各所で広がっています。ただ問題は、そ
れが経済全体の中でどういう意味を持つかということについては、まだ位置付けされきってないと思っ
ています。

 ここでも面白いのは、これはまさに課題なんだけ れども、自由主義のウクラード、協同主義のウクラー ド、経済制度といいますが、経済システムが全体と しては、例えばある国の経済という問題になりますけど、ある国の経済で、自由主義の経済制度と協同主義の経済制度はどういうふうに存在しているかと いうことを考えてみると、つまりどっちかが支配的でどっちかが従属的であるというのは、つまり支配 的ウクラードと従属的ウクラードとかっていうなことは、割合マルクス主義で使われましたし、それからもっとニュートラルには基本的なウクラードと副 次的なウクラードというふうなこともいわれてきました。

 

固定的な支配・従属、基本・副次でない関係性

 僕としては、それを相互の関係性のシステムとして時間、空間のおいて、どういうふうに考えたらど う見えるかいうことを、まだ具体的ではありませんが考えていきたいと思っています。これを歴史の問 題でいうと、ウクラードの歴史的ダイナミズム、つまりさっき言ったように、例えば同業組合、ギルド 的なものは、実は自由主義型が想定するように国家によって絶滅させられる問題であるというふうに議 論するけれども、実は同業組合の問題は現在協同主義の中で労働者協同組合とか、現在のplatform cooporativism などさまざまな形態がありますね。さまざまな形態の中で、絶対主義の社団国家とは違 う意味でのあり方で展開をしているという歴史的ダイナミズムがあって、そうすると残っているものの 再定義をきちっとしなきゃいけない。つまり残ってるものは残存物であるというに議論するよりも、そ れを螺旋的な展開のなかで再定義することによって新しいシステムの中に編成し直すという問題がある のではないかというふうに思うわけです。逆に社会の中の資本主義的でないもの、中間団体の自立性、 などを徹底的に排除しようとしたのが新自由主義でした。もちろんそれは不可能でした。資本主義を支配的、基本的としますと現実に反して多くのことが、資本主義に回収されることになります。

 これは今、一生懸命読んでるんですが、インドの話が面白くて、この田辺さんたちは文化人類学の人たちらしいんですが、つまりインドを中心とした南 アジアの高度成長の問題は東アジアとどう違うかとかいう議論をしています(田辺明生他編『現代イン ド 1 多様性社会の挑戦』東京大学出版会2015 年)。

 そこで面白いのは、例えばカーストというのは、 今もある意味で厳然として存在していると。その場 合の、なぜ存在しているかというと、それは実は職 能的な居場所の問題として機能してるのであって、 単なる身分制として存在してるわけではないと。

 だとすると身分制的なものは取り除いて、いわば職能的な、職業的な居場所の問題としても、あるいはコミュニティーとしても、その問題をきちっと位置付けるようなことをしているのが南アジアの特殊な高度成長のメカニズムだってことは、非常にある意味で説得力をもっています。それは必ずしもカーストだけじゃなくて、いろんな問題を考えるときにあり得るんじゃないかと考えています。

 つまり、最初に触れた中間団体と結社、同業組合と結社、コルポラシオンとソシエテ、ひいては、自由主義と共和主義は、対立的で敵対的な関係ではなく、豊かで平和な方向に向けての、構成可能な併存する二つの契機、すなわちシステムとしてとらえれば、どう展開させるかが次の困難ですが、豊饒な課題になるでしょう。そしてそれを構成する主体性の契機は四潮流論などこれまで研究してきた戦前、戦時、戦後、ポスト戦後の中に存在することは、著書や報告でお話しした通りです。

 以上をふまえて、「ポストナショナルデモクラシー」 (坂本義和、なお雨宮前掲『日本近現代史をどう見る か』173 ページ)と戦争と平和に関わる、国家主権ではなく地域主権にもとずく国際秩序、協同主義、 日本国憲法第九条の歴史的現在、などの関連を現在 考えています。

 

 本稿は、2023 9 24 日の協同主義研究会での 報告にもとずくものです。