雨宮昭一の個人研究室

政治学と歴史学と地域の研究をしている雨宮昭一の備忘録です

占領史と戦後史、方法としての体制論=システムと言語

はじめに

 3月18日に占領・戦後史研究会が法政大学で行われた。テーマは、小宮京さんの『語られざる占領下日本ー公職追放から「保守本流」』(NHKブックス、2022年)の書評で、内容に即した竹内桂さん、「占領史研究」から近・現代史、との視点からの出口雄一さんの報告があり、討議があった。その時感じたことを発言したが、それを少し敷衍してメモをしておきたい。

1,体制=システムとしての戦後をどう考えるか

 この本の結論部分で、小宮さんは占領下の公職追放は「占領下の日本政治に大きな影を落としている」、占領期=戦後日米関係の起点、戦後日本の原点との趣旨を述べている。この本では、占領軍の内部諸勢力と日本の政治家との局面,局面の反応関係から、上記の結論を導き出していて説得的である。しかし占領や戦後は、政治の局面だけでは成立するわけではない。政治以外にも経済、社会、国際関係などの諸領域の関係構造で成り立つ。

 私はたとえば、戦後の国際システムは、戦勝国体制と冷戦体制であること(『占領と改革』岩波新書、2008年)を指摘した。いうまでもなく戦後は戦勝国の支配する、あるいは決定的な影響力のあるシステムである。戦後が終わるとは、戦勝国同士が軍事的に対立し、例えば核戦争に至る様になる、つまり戦勝国体制の崩壊である(雨宮昭一ブログ、2022年11月21日)。占領はその戦後体制の一過程、一局面である。

2,占領するものと占領されるもの、システムへの規定性

 いうまでもなく、占領は戦争の継続でもあり、軍事的な敗戦の後の一期間という意味でも戦後システムと占領は区別されなければならない。その一つの視点は、占領するものと占領されるもののシステムの全過程における、規定性とその強弱である。戦勝国体制でも占領の後の占領地域の歴史の多様性として現れる。このことは、占領する側の規定性が一方的でないことを示す。つまり占領される側の主体性の重要性である。

 その視点から見ると丸山真男宮澤俊義の「八月革命説」は占領される側の主体性を前提にしているといってよい。それが、規範的あるいは法律論からするものであっても。さらに具体的には八月革命説の前提になっている、ポツダム宣言を受け入れたのは日本側であること、さらに具体的には自由主義派という日本の政治社会潮流であった(雨宮前掲書)。この視点から考えると戦時体制と戦後体制の連続性を指摘した総力戦体制論は、規範や法律論とことなるが、構造の連続性を重視する点では、占領される側の規定性を重視する“共通性”を有する。興味深い論点である。これはこの本の政治局面からの“占領決定論”から浮かび上がったものである。

3,言説論とその後

 小宮さんのこの本の特徴の一つは、公職追放保守本流吉田学校、などの言葉の使われ方のこれまでの評価を、当時のはじめて使った人、使った人、使われ方に厳密に即して使われた文脈の正確な再現を図ろうとしたことである。

 この点について三っつの論点が浮かび上がる。一つは、この本では、自覚的に関連されていないが、これまでの言説論とヘゲモニー論と上記の特徴との関係である。これは政治家、官僚、評論家、研究者に至るまで、言葉は中立的では、有り得ない。言葉は効用を自覚的に、時に無自覚に意図して作られ、使われる。かくして言葉を通じての同意と納得と行動を獲得する争いがヘゲモニー争いであり、政治空間である。この本はこの方法に沿っているとも見えるが、その前提としての発話、使用の正確な再現を目指しているということなのかもしれない。

 二つには、もう少し大きい問題であるが、この間の認識問題において、構造主義から社会構成主義への変化があった。これは言語論的転回ともいわれ、つまり社会は、構造が決めるのではなく、言説を通じて構成されるものであるとの認識である。この流れに私もコミットしたが、この数年、それはポピュリズムに現れるポストツルース、フェイクと区別できない問題を、どう考えるかを考えてきた(雨宮『時代への向き合い方ー老年期の学問・高齢社会・協同主義』2021年、丸善、77頁)。つまり社会構成主義は、事実に即しない言説もそれが、同意を獲得して社会がその方向に動いたという事実を、社会の構成、とするから、フェイクを否定する根拠をもてないからである。したがって、言説とそれによる社会の構成、あるいは局面局面の言葉の影響とことなる次元が必要と思われる。それはそれらの関係の集約された構造、システム、体制というものの客観的な存在を設定することである。そのことによって、個々の言説の、客観的位置づけと方向性が確保される。いうまでもなく単なる構造、システムではなく、言語論や、構成主義をふまえた、螺旋的なそれであることはいうまでもない。こうした言語論の再構成、再定義の方向とともに、フェイクを個々の事実で検証することも重要であり、小宮さんのこの本などはそれに貢献している。もちろん個々のことばや、状況にシステム、構造は解消されないことは前提である。

 三つめは、言説生産の問題である。言説の分析、言説状況の再現だけではなく、自らの分析にそくして、言説は生産されてきたし、それ抜きに社会は存在しない。それは、上記の新しい構造、システム、体制、言語論からもおこなわれるが、自らの規範からも行われる。実際にたとえば第二次大戦戦前体制における吉野作造、戦時体制における三木清、戦後体制における丸山真男、蠟山政道、高坂正尭、などが、それぞれの体制の言説生産をおこなってきた。そして、その体制が崩れる時その言説も社会的力を失う。その言説が社会的力を失う時、その体制は崩れる。小宮さんのこの本の内容は、この言説生産の問題も関連させると、さらに生産的な展望が開かれると思われる。。