雨宮昭一の個人研究室

政治学と歴史学と地域の研究をしている雨宮昭一の備忘録です

「君たちはどう生きるか」宮崎駿、吉野源三郎の意味と位置

 昨日、かねて子供たちといっても40歳代だが、子供たちにすすめられた、宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」を見た。ジブリのものも含めてアニメについては系統的に見ていないものであるが、感じたことを書き留めておきたいと思う。

 長い間、ものやことをつくってきた人間が高齢となったとき、自分がつくってきた作品などの内容、方法などに、それぞれ直したいもの、つけくわえたいとおもっていることをつなげて、作品として表現したいという願望、欲望をもつことがある。この映画も宮崎のそうした意向がある様に思われる。宮崎ほどの質量すぐれた作品をもつものによるそれは、絢爛豪華である。

 ストーリーとそのつなぎはアニメあるいはアニメ界の自伝として表現されるが、直接的には作者の自伝として展開される。空襲でなくなった母親がのこしててくれた吉野源三郎の本『君たちはどう生きるか』を涙を溢れさせて読む少年からはじまる。その本の内容と共通して民衆のものもふくむ非合理的非科学的なものやことに距離を置く少年である。その少年が鳥や人に媒介されてこの世とあの世のパラレルワールドを往き来する。

 ここで考えなければならないのは、少年の生活の基盤である、軍需産業で儲ける父と、非合理とした戦争をとめられなかった、本の作者である吉野源三郎との関係である。この二者を対抗的に見るのが一般的だが、現実においては相補的であった。戦争は軍需産業を必要とし、非合理非科学だけではできず、合理的科学的人間を必要とする。そして後者の部分が終戦を早める役割をした。少年もこの二者を矛盾なく共存させていた。

 戦後になると、資本家は軍需から民需に転換し、吉野たちは非戦で、合理的科学的な部分の担い手として、ともに高度成長を牽引した。日本のアニメ制作の展開も、宮崎たちの展開も、この民需と非戦による高度成長によりそい、時に推進する位置にあったといってよい。それゆえにそれを反映した宮崎の、そしてアニメの「自伝」は絢爛である。例えばパラレルワールドの舞台であり境界である、和でもなく洋でもない建物と森などの、湿気のなかでのきわめて、みずみずしい、幻想的リアルさ、にあらわれている。

 このアニメの達成と並行して、軍需でない民需産業、つまり人殺しの商品の製造と貿易をしない、非戦で合理的でヒューマンな吉野たちの達成も美しい。そして今、アニメも、吉野たちが達成したものも転機を迎えている。高度成長の時代と異なる新しい時代、新しい秩序をつくるために、普通のアニメ、武器を製造し貿易をする普通の国にもどるか、あるいは、宮崎たちの達成、吉野たちの民需、非戦、合理性の達成を十全に生かしていくか、を決めるのは「君たちはどう生きるか」にかかる、いうのがこの映画のメッセージであると私は思った。