雨宮昭一の個人研究室

政治学と歴史学と地域の研究をしている雨宮昭一の備忘録です

新たな戦争状態に対応する新たな知、新たな運動

新たな戦争状態に対応する新たな知、新たな運動

       2022年10月16日 文明フォーラム@北多摩研究例会(オンライン)

                            雨宮昭一

 

はじめに

  テーマは、「新たな戦争状態に対応する新たな知、新たな運動」というふうにいたしました。それはなぜかといいますと、多分今の戦争状態というのは、今までにない状況に来ていて、その変化とですね、それた対応する運動や知のあり方は、まだわかってないのではないかと思います。僕は実は、博士論文は戦争の話を書いたのですが、いろいろな方の業績とか評論を読んでいても、大方は[ウクライナがんばれ」「ウクライナ勝て」というだけで、この変化してる世界の新しい戦争状態と、それに対応する知と運動を必ずしも提起しているとは思えない。

 それは立派な知識人とか理論家に頼っても駄目なので、世界の最先端にいる、現実に普通に生活している人たち。その人たちが世界のそれぞれ最先端   で、そこでいろいろ考えてもらって、新たな知と新たな運動のことを構成し、作り合っていくということしかないのではないかというふうに私は今思っています。

 したがって、それぞれが働いてる場所とか、住んでる地域とか、関わっている運動とか、関わっている研究などで、その問題に関する経験とか知識とか情報を持ち寄って、構成し合うと。そうやって作っていくしかなくて、その一環として今日も考えたいというふうに思っています。

 しかし一般的な話ばかりしてiいると実はいけないんで、一つの試論として材料はお話しますけれども、皆さんは、それも一つの材料として、それぞれが、それぞれの経験とか知識とか情報をぜひ持ち寄っていただきたいというふうに思っています。

私は、この報告をするときに考えていたのは、私が私のブログでいくつかこれに関連するものを書きました。今年の2月26日ですね、つまり、2月24日にロシアが侵攻していったその2日後に書いたものです。それから7月7日、それから8月9日も、ちょっと関係するブログを書きました。それから一番最近は9月19日に、やっぱり書きまして、実はこの4つのブログをもう少しまとめて、新しいものを付け加えようと思ったんですが、さっき言ったように、私がちょっと忙しくなったので、それができなかったので、最初に出したものを中心にお話をして、補足しながらお話をしたいと思います。

 

1.現状

 

1)新しい国際的な枠組みの形成過程

まず第1の現状の問題です。現状とはつまり、今の世界の変化とそれに関する戦争とか運動ってのはどういう問題、どういうことなのかっていうことを考えたいと思うんです。

 新しい国際的な枠組みの形成過程ということでありますが、これはですね、今まではの戦後の国際システムとは2つあるわけですね。1つは戦勝国のシステム。戦勝国が中心となったシステムです。だから戦勝国の五大国は拒否権を持つなどという、わかりやすい戦勝国の体制なんですね。そこではソ連や中国とアメリカ、イギリスと、体制は違っても戦勝国としてのインタレストは共有していて、そこはずっと離さなかったわけですね。

もう1つはその戦勝国同士の対立を冷戦体制という形で、その後出てきますが、そこでの重要なことはですね、冷戦体制で対立しているように見えるけれども、戦勝国同士の間では、実は、全面戦争しないということ。実は戦勝国体制は、お互いが保ってるいうこと。だからNPTのような核拡散防止条約のようなものも、ある意味ではそういうことです。

キューバ危機も実はあったんですが、あれも後から言いますように、プーチンロシアの今の現在も、つまり、戦勝国の一方が、具体的に核を使う可能性がある、使うぞっていうことを言ったことはないんですね。キューバ危機の場合も、予防のためにキューバ核兵器をお置くか置かないかっていう問題が、やっぱり基本的なポイントだったはずです。だからケネディの水際作戦もある意味可能だったわけですが、今度の場合は、戦勝国体制が崩れ始めている。冷戦体制も崩れたけど、戦勝国体制も崩れているという意味で、かなり新しい状況になってくるわけです。出版した『戦後とは何か』上(2014年、丸善)のなかで、私の見解に対して「それでは戦後は永遠に終わらない」との指摘もありましたが、崩れるのですね。第一次世界大戦戦勝国体制が崩れて第二次世界大戦になったことも参考になりますね。

 

2)核兵器の不使用という前提の崩壊

そうすると、何がポイントになるかというと、核兵器の不使用。逆に今までは、いろいろ言ってもですね、核兵器を不使用、使用しないということを、ほぼ前提にしていたわけでありますが、その前提が崩れる。つまり戦勝国の間が割れて、一方が「使う」ということをかなり明確に言う。これは中国も北朝鮮も含めてですけど、言い始める。もちろんNATO側も、やるんだったらやるという話になってくるわけであります。

 

3)無条件降伏モデルが通用しない

もう1つは、第一次世界大戦第二次世界大戦の戦争の終わり方はどういう終わり方が一貫するかというと、無条件降伏モデルです(雨宮昭一『占領と改革』2008年、岩波新書)。つまり、相手をコテンパンにやっつけて、無条件降伏をさせて、戦勝国が次の国際秩序を担うという形でのシステムだったわけですけれども、今度の場合は、実は戦後ずっとNATOも非NATO派も、結局無条件降伏モデルをずっと使ってたわけです。それはなぜかというと、先進国同士の戦争ではなくて、例えばリビアにしてもイラクにしても、要するに非常に非対称な、つまり、覇権国家って大国が旧植民地とか小さい国と戦争する、戦争と言わなくても戦争状態をやって、コテンパンにやっつけて、無条件降伏をさせて、その後戦勝国がそこをいいように支配するということが、これまでの戦争の終わり方であったわけですけれども、これは無条件降伏モデルも通用しなくなります。なぜかというと、これは後からお話しますけれども、核兵器を両方が持っていて、核兵器を使うということになると、コテンパンに相手をやっつけるという状況はなくなるわけですね。従って、無条件降伏モデルでも戦争は終わらないということになりますから、それは新しい国際的な枠組みと、戦争状態だというふうに考えるわけであります。

そのことについて、最近の問題ですけれども香港の問題、それからウクライナ戦争、台湾有事の問題などがあります。これらはそれぞれ違うように見えるけれども、香港の問題はかなり内部で閉じていましたけれども、僕は本来だったら取り上げるべき問題だと思うんですが、ウクライナ戦争、台湾有事の問題を考えると、純軍事的に言えば、どういう戦争状態になってるかって言えば、基本的にはNATO派と反NATO派が対立するということになります。しかもそれは前のように、非対称的な関係ではない形での対決になるということになりますね。

 

4)小競り合いから本格的な戦争へ

それで、それぞれが軍事的な展開をするということを、戦争の準備を始める、あるいは戦争を始めてそれに対する応対で軍事的な展開を行ってくるということになります。そうすると当然睨み合いの状態も含めて小競り合いが必ず起きるわけですね。ウクライナ戦争の場合にはもう行っちゃいましたけれども、例えば台湾有事なんかの問題も含めると、睨み合いをしていて、現地で小競り合いがあるということになります。今までの戦争を見てもそうなんですが、大体一番の責任者たちは、全面戦争をするつもりは必ずしもないけれど、実際上はこういう軍事的な展開の中で小競り合いが起きて、現地でいざこざが始まる。そうするとどうなるかというと、大体ですね、ジャーナリストも政治家も、それから民衆も含めて、「やっちまえ」、「きちんと反撃しろ」とかですね、「相手は許せない」というような形での、引っ込みがつかない状態が大体作られます。そうすると、責任者たちも、それを抑える力が無いんですね。無いとですね、結局は本格的な戦争になってくるということになるわけです。

 

5)核戦争の現実性

本格的な戦争になりますけれども、その場合もあくまで通常兵器での戦争状態になるわけですが、これが通常兵器で負けそうになった一方は、戦術核を使うということが現実的に存在するという問題になりますね。この戦術的な核兵器は、影響力は実はあんまり大きくないわけですね。従って決定打にならない。お互いに通常兵器、戦術核兵器を使うけれど、結局は戦略核兵器を使うしかないという状況になるということになるわけです。純軍事的に言えば、そのことは十分にある。台湾有事の問題も含めて、あるわけです。

だから、今度のウクライナ戦争の問題も、そういうことを考えると、もう単純なウクライナ応援で、何か野球の試合を見るような感じで「ウクライナ勝て」とか「ロシア勝て」みたいな話では済まない問題であります。

6)軍事だけでは事は進まない

 従って、大事な事はですね、むしろ単純にウクライナにつくということが正義であって、それをすることが大事だということになってくればですね、これは大軍拡ですね、2倍3倍の軍拡。当然そうなってくると、いろんな問題がついてきて、原発の再稼働とか新設とかっていうことにならざるを得ないわけです。そしてその原発が攻撃の対象になります。

 そしてその事を、またそういう状態をどう考えるかということが1つのポイントになるわけでありますが、現実には、まさに僕は軍事の勉強をずっとしてきましたけど、軍事で事態が進むわけではない。軍事だけで事態が進むわけではなくて、それとは違う経済とか政治とか外交とか運動とか文化とか、文化交流とかネットワークとか、民主主義とか意識など非軍事領域のあり方によってそのことを変えることができる、あるいは影響を与えることができると考えるわけです。

 

2.対応

 

1)国際秩序の方向

 では、それに対する対応をどうするかということが第2番目の問題です。

対応という問題では、国際秩序の方向の問題。つまり新しい事態の中での国際秩序の方向性の問題をどう考えるかっていうことが必要なわけです。

1つは、NATOか反NATOか、後は民主主義か権威主義かという議論で、どちらかに組するという形でのあり方では、この新しい国際秩序の方向性、それとは違う方向性は見えてこないのではないかというふうに思うわけです。

 例えば、もちろんロシアの場合は権威主義的で、ああいうわかりやすい侵略的なことをやるわけですが、NATO派も戦前戦後、現在まで含めて、ほとんど同じ事をやってきたわけです。特に、植民地とか従属国とか、そういうときに対応するあり方は、つまり、口実をつけて戦争を始めて、やっつけて、言うことを聞かせる。文化的な意味でもそれを変えるというようなことはずっとやってきたわけですが、その点では両方とも、覇権主義的な側面を持ってるということになるわけであります。

 

2)70年たった以前の植民地・従属国の現状の問題点

 それからもう1つは、これは僕も歴史学の方もやってますけれども、この問題は難しい問題なんですが、旧植民地とか旧従属国が戦後、第二次世界大戦が終わった後、次々と独立していくわけでありますが、そのときに、旧宗主国あるいは旧侵略国というか、旧侵略国の側は、植民地や従属国が独立したところは民族自決、それから主権国家民族自決というのは、民族自決というのが一番のポイントになるわけですね。そうすると、旧宗主国あるいは旧侵略国の側は、あるいは旧侵略国の知識人は、負い目を持ってるというか、もちろん負い目を感じていいわけですけども、そのことによって、実は、もう70年たっているわけですね、独立があってから。そうすると70年の間に何が変わったかというと、これは中国が典型的なわけですけれども、まさに覇権主義国家として成長して、地球のナンバーワン・ナンバーツーになってきてるということになりますね。そうすると、その彼らの動きを批判しないというわけにはいかないわけであります。しかも民族自決という形で国内の様々な異質なものをもうどんどん潰していくっていうようなことが行われて、それを民族自決という名前でどんどんやってしまうとかですね。それから、旧植民地、旧従属国が、彼らが植民地や従属国になる前の帝国の再建のようなことを言い始めるというようなことは、もうどんどん行われているわけです。

 そうすると、侵略をしたことに対する認識の問題はきちっと持った上で、しかし70年間経った植民地・従属国の現在のあり方に対しては、きちんと反対し批判するということをきちっとやらなきゃいけない時代に入っちゃってるというふうに僕は思っています。

 大それで大きな動きは、帝国の再形成。例えば、中国の中華帝国の再形成だし、ロシアも冷戦のときの全盛時代の括弧付きのロシア帝国の再形成だし、アメリカの場合も、非常に白人が相対化された時代の前の白人天国としての再形成というのを、トランプなんかも含めてですけども、それが一般的に存在してくるという状態になるわけでます。

だから、それはある意味では、国を越えた国際秩序の問題にもなってくるということになりますね、必ずしも帝国の再形成ではないけれども、国を加えた国際秩序の問題として、その問題も存在するというふうに考えます。

 

3)認識の転換の必要性

それからもう1つは、主権的国家による領域内つまり領土内の一元支配を行おうとする。これも、果たして主権国家であるから、その領土内では何をやってもいいなんていうことはあり得ないわけでありますが、何かその主権的国家とか民族自決と言われると、それは民族自決に対する「内政干渉」いうようなことを言われてしまうということがいっぱいあります。

 それからもう1つは、これは香港の問題でもそうですけれども、民族自決による国内の自立的な動きの弾圧というようなことがどんどん行われるというような事態が一方であるわけです。

  それからもう1つは、伝統とか民主主義という名による価値観の押し付けということ。これらを方針、政策の最上位に置いて、軍事的手段を背景にし、あるいは直接用いて他のものを制圧しようとするのを、一応覇権国家、覇権国というふうに言いますが、この覇権国家による覇権国秩序が相変わらず再形成されているということになるわけですね。

そうすると、それに対しては、どちらかの、よりマシな覇権国の方を選ぶということでは、多分済まないだろうと思いますね。従って、私達が考えなきゃならないことは非覇権、非軍事、非暴力の秩序を、相対的でありますけれども、非覇権、非軍事、非暴力の秩序をどのようにつくるかということが、多分課題だろうというふうに思います。

こうなってくるとですね、そのための認識の転換が必要ではないかというふうに思うわけであります。認識の転換というのは、帝国あるいは主権的国家、民族自決、それから価値観を最上位に置かない出発点を持つ必要がある。つまり、多くの人間は、思わず過去の栄光とか、自分の国は過去、世界的にあるいは国際的に非常に勢力があった、いい時代があったとかっていうふうに考えたり、それから、主権的国家、国家主権を持った国家が一番自明の前提で、それが最初で最後であるみたいな考え方とかですね。それから、民族自決というふうなことは、そんなに自明では実はない。民族自決ということを、今まで非常にプラスシンボルで考えましたけれども、それを最上位に置くということではない。それから、覇権主義はともかくとして、民主主義というような価値観、伝統による価値観を一番上に置く。

 

4)地域の人々の生命と生活を最上位におく

今度の新しい9月19日のブログでは、それを分析というか考える場合に、何を独立変数にするか、何を従属変数にするかっていうことをお話しました。独立変数というのは、わかりやすく言うと、他に影響されない要素。他に影響を与えるけれども、他には影響されない要素を独立変数。それから、その独立変数によって影響を受けるのは従属変数というふうに、社会科学なんかの議論ではよくやりますけれども。そのときに、帝国とか主権的国家とか民族自決とか価値観を独立変数にすることをやめるべきであるというのは僕の理論です。そうすると、何が大事かというと、その地域地域に住んでる人々の生命と生活を最上位に置く。つまり、これは、帝国に住んでいようと、主権的国家に住んでいようと、その中の民族の中に住んでいようと、価値観のシステムがあろうとなかろうと、大事なことはその地域に住んでる人々の生命と生活を最上位に置く。つまり、これを独立変数として、ある意味では、帝国っていう国を超えた国際秩序とか、主権的国家とか、民族自決とか、価値観は、その従属変数にする。というふうに認識をきちんと転換する必要がある。これは僕の試論ですが。

 

5)アルトジュース主権論

政治学とか哲学でいろいろな、そんな専門ではありませんけども、これはアルトジュースという人がですね、アルトジュース主権論というのが有名なんですが、これも若干詳しいことはブログ(ブログ、2022年7月7日「ロシア・ウクライナ戦争の終結のしかた」)に書いてありますけれども。アルトジュース主権論とは何かというと、一番最小の単位。地域とか、家族とか。地域だと思いますが、一番最小の単位が主権を持っていて、他の国家とか国際システムや価値観は、それを補完するものだ、補完されるそのものであるという、するべきものであるというのがアルトジュース主権論です。

 私達が近代で自明に思ってる主権論ってのはジャン・ボダン等の、1つの国内で権力はたった1つ、それは国家の主権であるという主権論です。つまり、それで、人々とか地域とか等々は、それに従うべきであるというのが近代の主権論ですね。これもちょっと難しくて面白いのは、絶対主義政権が、実は封建社会の多元的な権力状況を1つにまとめる、絶対君主のもとでまとめるという形での主権国家ができたわけですね。そして、その後の、いわゆるブルジョア革命によって、それを人民主権という形に転換をさせることができたわけです。これはつまり、封建社会のままだと、人、国民主権という言葉は出てこないわけです。絶対主義政権が主権国家を作ってくれたからというか、作ってるので、そうなっている。ところが、人民主権国民主権といっても実は、国家主権は動いていない。だから、一見、人民主権は国家を超えるように見えるけれども、実は主権的国家の範囲の中でしか存在しないというふうになるわけであります。だから、これはいろんなところで言われますけれども、メンバーシップという形で、福祉も何もかも含めて、主権国家の一員である者は恩恵も受けたり、義務もあるけれども、他のところに住んでいる、メンバーシップでない人たちは、それは法の対象にはならないという議論になるわけであります。

こういう形で、こういうことを前提にしていろんなことを考えるということが必要で、それに見合った運動が考えられなければならないとおもいます。

6)非覇権的な国際秩序を作る

ちょっと、今言った非覇権、非軍事、非暴力の秩序という問題は、非常に面白いの、日本は一体何であるかっていう問題で言うと、実は、ある意味では覇権国家を卒業した国なんですね。戦後70年も卒業したまま存在してるっていうことの持つ意味はすごく大事で、やっぱり非覇権的な国際秩序を作るイニシアティブを担う1つの契機を持ってるというふうに私は考えるわけであります。

 それに見合った運動で、少し劇的な運動でありますけれども、戦争放棄の中で、無防備都地帯、無防備都市宣言という運動があります。これは具体的には国際法での戦時法で認められてるわけですけれども、その地域、国が戦争しようとしまいと、括弧付きの敵国が来ても、その都市が非武装であるということをきちんと知らせれば、そこを侵略してはならない、そこで戦争してはいけないというのは無防備地帯宣言です。これは、グーグルなんかで引けばいっぱい出てきますから、単純なところはそこで見ていただければいいんですが。

これは実は、20年ほど前にものすごく日本でも流行ったっていうか、実はあったんですね。松下圭一さん、私は非常に親しくしてもらって、平和学会なんかを作るときに広島の旗揚げのときに、シンポジウムに動員されたりして、非常に付き合ってもらったんですが、彼なんかは、「雨宮、無防備都市宣言があるんだ」とその当時に言われて、これをやれば戦争なんかしなくても済むんだということで。これは地方自治の松下さんらしく、ある意味では、地域に住んでる人々の生命と生活を最上位に置く発想は共通してますがそこで、ちょっと僕も今コロナもあってそんなに外に出られないので、検索でいろいろやってるわけですけれども、国立市なんかも、札幌市とか、それから東京都と、そこら中で非武装地帯都市宣言をしようとするところまで行っています。これが難しいのは、行ってるんだけども、それを宣言したところはまだちょっと見えていないかもしれません。

それも一つの考える運動としてはあり得るんじゃないか。当時は、平時で行われたので、そんなにリアルではなかったんだけれども、この新しい段階で、有事のもとでこの問題を検討しり実践したらどうなるかっていう問題は、なかなか面白い問題だと思います。

それから、今言ったような、地域に住んでる人々の生命と生活を最上位に置く、あるいは独立変数で考える。何回も言うように、それは国際秩序とか現実の主権国家とか、そういう価値観とかいう問題と対峙させたり、どっちかという問題ではなくて、地域に住んでる人々の生命と生活を最上位に置く、独立変数とすることは、新しい、それに沿った国際秩序とかですね、それから国家とか、それから民族自決とか、それから価値観を相対的に作っていくということにもなっていきます。

 

7)協同的な経済、連帯経済を増やしていく

 それから経済では、侵攻勢力には経済する。侵攻以外の勢力が経済制裁をさせるっていうことは非常に重要です。しかし一方では、これは最近僕は協同主義という言葉を、つまり競争よりも協同というような問題も含めて、協同主義の問題、あるいは工藤さんたちがずっとお話されている社会的連帯経済なんかの問題も含めてですけれども、経済の問題は根本的には、覇権の基礎となるのはやっぱり競争なんですね。ある意味では市場の論理がやっぱりもとにあります。それは競争や分断のある意味では推進力になるという問題になりますので、その経済を相対化するような地域、国家、それから国際的レベルの協同的な経済あるいは連帯経済を相対的に増やしていくということと、さっき言ったような新しい国際秩序の問題は連動しているというふうに考えたいと思っています。

8)権威主義国家か自由主義国家かではなく

 これは今言ったように、根本的には覇権の基礎となる競争とか分断という問題で言うと、2つ問題があって、1つは権威主義国家と自由主義国国家の対立が今だというふうによく言われるわけですね。そのときに、権威主義国家か自由主義国家かではなくて、権威主義国家は当然、人権を無視したり様々な問題点がありますけれども、自由主義国家もですね、実は非常にある意味では寡頭制になる側面もあるわけです。これは当たり前のことなんですが。つまり自由主義というのは、基本的にはあらゆる意味で、市場の自由競争を社会的な根本原理とするわけでありますから、従って、すごくわかりやすく言えば、弱肉強食も当たり前ということんなるわけですね。そうすると、結局は競争に勝ったエリートたちに富も権力も集中するということは、いろいろあったって必然的な成り行きになります。だからエマニュエル・トッドっていうふうな人たちが言っているのは、「リベラルオリガーキー」「リベラル寡頭制」だというわけですね。

これもまた難しいのは、権威主義国家というのは自由主義国家がカバーできない、経済外に追いやられている、生活が苦しい人々に対して、権威主義的にそれに手を差し伸べるという形も一方であるわけです。つまり、権威主義国家は権威主義国家としてなぜ生き続けているかっていうと、これは中国も含めてですが、利便性と安全性をいわば国家が保障する。自由主義国家は、資本にとっての利便性はあるけれども、利便性とか安定性は保障しないということになるわけですね。従って、どちらもある意味では問題点があって、大事なことは、両者でないあり方をどう考えるかということになります。

 

9)多数派である非覇権国の役割

 両者でないという問題は、実は1つは、国際的な意味では、これはいろいろありますけれども、いわばNATO派と反NATO派。それから、権威主義国家と自由主義国家っていうものの対立として描かれますけれども、ちょっとわかりやすく言うと、これは台湾有事の問題を含めて中・ロ対NATO派という対立になるわけですけれども、この2つに必ずしもつかない多数の国がいるわけですね。これは非常に面白い。つまり、それは本人たちがどう思おうとも、非覇権主義でしかあり得ないことも含めて、非覇権的でかつ、単なる自由主義でも単なる権威主義でも済まないような状態にある多数の国や地域があるわけですね。

 この勢力が、例えばウクライナ問題も、遅かれ早かれ停戦に持っていかなければならないわけですね。それで、さっきも言ったように無条件降伏モデルは使えないわけですから、いつかは停戦させなきゃならない。そうするとそのときに、結局NATO派も非NATO派もそれをちゃんとできない。とすれば、それとは違う国や勢力が、その仲介に入るしかないわけです。これは、例えばインドなんかはそうであるということを言われたように、トルコもそうであるとか、あとその他多様なところがあると言われてますけれども、これも非常に大事なところであります。だから、自由主義ではないけれども必ずしも覇権主義ではないというふうないろいろなバリエーションを丁寧に見る必要があります。

 

10)外交ー覇権国を卒業した卒業生としての日本の役割

そして、外交の問題で言えば、実は国際社会はNATO派と反NATO派だけで形成されているのではなくて、それ以外はかなり多数が非覇権的な非NATO、非反NATOのような勢力や国がいっぱいあるわけですが、これを集めて、非覇権・非軍事・非暴力の秩序形成ををするしかないというふうに思います。そのときに、もちろん今日本はかなりNATO派に組み込まれ過ぎていますけれども、大きな流れとしては、覇権国を卒業した卒業生として、覇権になる前の非覇権ではなくて覇権をやってしまってその後のものとしての日本が、その問題の1つのイニシアティブを握るということは十分にあり得るというふうに考えるわけです。

 

11)非覇権、非軍事、非暴力の社会をもっと強化する

それから、その他に、結局は職場や地域などの運動と、内外のネットワークを形成するしかない。これは要するに、国を越えたり、つまりあらゆる職場とかあらゆる地域が、良くも悪くも、日本民族単数で何かができるなんていう時代は終わってるわけですね。従って、そこはある意味ではどこでもいろんなお話を聞いてもわかるんですけれども、そういうネットワークをかなり強くしながら、あらゆるレベルで非覇権、非軍事、非暴力の社会をもっと強化していくということは必要だろうと思いますし可能だとおもいます。

 

12)文化の役割の再発見

それから、もう1つは文化の問題でありますが、これは無力に見えるけれども、実は軍事に干渉されない、主権的国家も超えたような、人間の本来の楽しみを与えるもので、文化を通した、しかも文化は非常にハイブローな文化だけではなくて、例えば私は俳句なんかをやるわけですけれども、俳句はですね、世界中、これはまさに覇権国も、自由主義国家も、権威主義国家も問わず、非常に盛んです。これは一見無関係に見えるけれども、こういうものが軍事や政治を相対化していくようなものとして、もっと意識的に考えていったら面白いんじゃないかなというふうに思います。

それからあと、必ずしも文化でなくても、実はいろんな形で内外の交流がいっぱいあって、それは個人的なものもいっぱいありますね。僕なんか個人的には中国の留学生とか、韓国の留学生とか、台湾の留学生とか、それからアメリカに僕が留学したときのアメリカの友人たちとか、イギリスにもいますけれども、非常に個人的な繋がりはいっぱいありますが、こういう問題も、もうちょっと広い意味で非覇権、非軍事、非暴力の問題として考えていくということも必要じゃないかというふうに思うわけです。

以上です。ありがとうございます。

 (以上は研究会の報告部分でありますが、二人のコメンテイターのコメント、私のリプライ、その後の討論については、それを収録した『協同組合運動研究会報』326号のpdfを参照してください)