私の七冊目の単著の準備のために、意図、構成、目次など考えていて、俳句のことを考える時間はすくないが,詠めたものを書く。
初嬰を万緑にくるみ帰宅する
初嬰を万緑にくるみバスを待つ
青葉全樹光の中の園児たち
コロナ禍やワクチン打ちて新緑へ
万緑の中にまたあり命かな
ベランダをふるさととするくろあげは
銀杏若葉てふ風のかけらをうけてゐる
甲州の寒気も漬かるたくわんは
深大寺平安の同じ緑風を吸っている
秋楡の二ミリの若葉銀放つ
どの家も貴族の館若葉若葉
以上
春満月を家の中まで連れ遊ぶ
春時雨蕗てふ花のあたたかさ
水平に氷河の擦痕岩山春
花に佇ち花の向こふを見てゐたり
初桜とらえし御器齧りのやはらかさ
大輪のらっぱ水仙深い息
花満つる桃の花満つ甲斐路かな
花満つる同姓の墓二十ほど
春燦燦万物を寛大にす
花絢爛花に負けても花と写す
中青年褒めていたわりノックする
打ち上げられし巨船四十五度春の月
チンピラを一人前にしてくれたと卒業子
菜の花を風がなでゆく廃線路
花に風昨日の憂さのおきどころ
悠揚と花と木もろとも夜に入る
江戸武蔵甲斐とわたりて花に飽き
入学の子の親とみに大人びし
以上
(4月1日の記事を操作中ここにも同じものが出たが消せないのでこのままにします)
3月6日土曜日は、早稲田大学ナショナリズム・エスニック研究所WIÑE研究会、戦時法研究会、、天川ゼミナール・ガバナンス研究会の三つのオンライン研究会に参加した。早稲田のものは貴堂嘉之さんのアメリカナショナリズムはシビックナショナリズム、エスノナショナリズムとされてきたが、奴隷制度と移民制度を基礎に置くレイシャルナショナリズムとするべき、との報告に対してコメンテーターの小沢弘明さんはアメリカ史の世界史化、を提起し移民国家はアメリカだけでなくで欧州やアジアなど世界中にある。そして移民国家に関わる分断やレイシズムは、労働力との関連で資本、経済、の問題として対処すべきとした。
私は分断、レイシズムなどを指摘し定義するだけでなく、改善、解決するためには小沢コメントのように資本や経済の側面に広げるひつようがあるとおもう。その場合に第一にはアメリカにおけるその改善や解決はアメリカだけに閉じ込めないで欧州、アジアなどでの改善、解決の実践,萌芽などを見る必要があること、第二に、資本主義の問題であるが、社会主義でも分断、レイシズムなどが「解決」されない、とすれば資本主義でも社会主義でもないあり方をかんがえることが必要とおもわれる。
戦時法研究会での「森と尊厳」に関する服部寛さん、ワイマール憲法48条についての遠藤泰弘さんの報告があった。後者の国家緊急権は革命の成就のためにも、反革命の実現のためにもなることを改めて再認識した。前者についてはキリスト教文化の中の人間、つまり自然も含めてすべて神がつくったとすれば神のみに依存する。それに対して自然諸物に神が宿っているとするアニミズムにおける人間とは何か、それが天皇制にもかかわり、人間の平等などはいかに考えられるかなど、が課題だと思った。
天川ゼミナール、ガバメント研究会では今回のアメリカ大統領選挙を羽賀さんがアメリカの留学経験や研究から詳しく報告された。私は選挙前後におけるポストツゥルースに関連して、[事実]と異なる事も知っていても直さないのはそれが「受ける」、それを聞きたがる人々がいるからであること。したがってたとえば苦境にある白人労働者の苦境をいかに改善、解決するかの探求が必要と思う、とはなした。
三つとも充実した研究会であった。それに同日に参加することなどはコロナ禍の前にはあり得ない。疲労したが楽しかった。
おほかたは水に流さず春ショール
打ち上げられし巨船の角度春の月
大地溝帯を走る人々大旦
校庭の空に溶け込む蛇口の氷柱かな
とも
一病が悪友への魔除け初桜
野馬はひらがなだろう かげろふ
藪椿一輪づつの墓参り
下萌えをボールのごとく犬走る
恋猫の闇の少なしベッドタウン
水仙をじつと見ている警備びと
ポットなる春の闇から湧く珈琲
春一番コロナの街をめくりあげ
春雨に突然さす日と鳴く鴉
春浅し少年ひたすら自捕自投
アスファルトに節分の豆一つ
ゆきのはて別れはつらし焼肉うまし
少年疾走春を追い越す
連翹を抜けて黒き猫となり
明=ミョウメイミン呉漢唐音ゆたかなり
蒲公英の黄のみ光れる急斜面
間氷期とある窓辺の紋黄蝶
下萌えや右往左往のビニール袋
呼びかけに弥勒の笑みを昏睡の母春
以上
かねてからの友人である先崎千尋さんから著書『評伝山口武秀と山口一門 戦後茨城農業の「後進性」との闘い』2021年1月、日本経済評論社、をいただいた。著者も組合長や町長などで関わった茨城県の、戦前、敗戦直後、高度成長期、高度成長後から現在における農業の変遷を「後進性」との闘い、を軸に鹿島郡行方郡ー鹿行地域の主要なリーダーの動きを中心に描いた作品である。
明治初期の自給的農業から商品経済の遅れた戦前の茨城の農村、敗戦後の小作階層を基盤とする耕作地獲得をめざした山口武秀をリーダーとする農民運動、耕作地を確保した農民たちの農業経営の要求に沿った自民党補助金政治、同じ課題に米プラスアルファ方式を打ち出した山口一門をリーダーとする玉川村農協、高度成長の中、県知事岩上二郎、山口一門、らによる「生産第一から生活第一へ」を目指した「田園都市構想」の模索と展開、その挫折の現在、という流れを本書は見事にえがいている。
ここで田園都市構想の展開とその帰結の位置ずけを考えてみたい。本書はハワードの田園都市論を次のようにとらえる。農村における心身の健康と活動性と、都市における知識と技術的便益と政治的協同、との結婚であること。そこでは「村落地帯に取り囲まれ、その土地はすべて公的所有かコミュニティに委託され」「職・住・楽を一体として保障」し、全ての住民は「農,工、商、サービス業」ではたらく、と(214頁)。
もともとハワードの田園都市論は都市問題の解決として提起されたものであるが、茨城でのそれは、集落を基礎とする農村生活の改善計画であったことに特徴を持つ。都市問題ではなく「農村計画」であるという。生産第一主義から生活第一主義へ、個人の生活改善から集落全体の環境改善へ、補助金目当てではなく自分たちの計画つくり、具体的には生産と生活の場の分離そのための生産団地と住宅団地造成などである。
その実行の結果は、確かに生産性や生活水準の指標が最下位に近かった地域が、現在の鹿行地域のように日本有数の園芸産地になるなどがあるが、全体としては農業の兼業化、農林漁業の衰退,,農村集落の混住化、などとなり、またリーダーの山口一門なきあと玉利農協がなくなるなど「元の木阿弥」(252頁)となったり、「田園都市づくり」は「過去のものとなって」(255頁)しまったという。
私は、田園都市構想の新たな実現の契機が以上の過程も含めた現在の都市と農村の状況にあると考えている。まずその一つは農村の都市化の進行である。それは上記の農村生活の改善の生産と生活の場に分離などは農民生活の都市型への方向をもち、兼業化、混住化は働く場所の多様性、生活する場所に住む人々の多様化である。農村からの田園都市構想の、集落からの田園都市構想の実践はそれを促進させた。
二つ目は、三つ目は都市の問題である。情報化、グローバル化などにより、大都市以外の膨大な数である地方都市は、第二次産業、第三次産業の衰退、人口減少などに逢着している。その結果、たとえばある県庁所在地の都市では中心部も含めてそこらじゅうに空き地がふえ、それがほとんどすべて駐車場となっている。このような状況は、大都市の中心部以外も含めて全国に見られるだろう。このような状況に対して様々な「町つくり」の試みがなされているが大きな方向性が見えないように思われる。都市と農村との関連でいえばどう見えるだろうか。上記の駐車場は産業上からも人口上からもいずれ機能しなくなるとしたらその後をどうするかである。それは端的にいえば、その膨大な空き地を農地にすること、それは農場、家庭菜園、市民農場とすることである。都市以前のしかしその後の都市化のもたらしたゆたか条件を踏まえた新たな農村化、都市の農村化である(それも不可能ならば自然であったその後の豊かな蓄積をふまえて自然にお返しすることである)。それは過剰なグローバル化、過剰な成長主義、過剰な自然破壊の克服につながる食物の自給自足、自然の復活、農業を身近にする新しい豊かな生活様式の展開となろう。それは新たな「田園都市」ではないだろうか。
三つ目は二つ目と関連し共通性をもつが、都市からの問題である。都市と地方の問題を、一方に限界集落を、もう一方に大都市中心部をおいて論ぜられることが多い。しかし、その中間に膨大なベッドタウン地帯、都市近郊地帯があることが忘れられている。この膨大な地域も、高齢化、人口減少、産業構造の変化などにより転機にたたされている。ベッドタウシステムは職と住の分離であるが、都市中心部で働き、郊外で生活をする、その人が住民税を払うことによってなりたつが、たとえば高齢化がすすむとその人が近郊地域の福祉の対象になることなどである。その問題の解決は、ベッドタウン化以前の状態、すなわち職、住、楽、遊、学などの形態としての再接合、再近接、再結合である。それはたんなる再帰ではなく、ベッドタウンの豊かな財産をふまえた再帰である。つまり螺旋的な再帰である。このポストベッドタウシステムもまた新たな「田園都市」と関連を持つように思われる。
かくして現在における農村の都市化と都市の農村化の交錯、コロナ禍でも明らかになった職住接合、近接もふくむポストベッドタウシステム化は、新たな「田園都市」への確かな方向性を持つように思われる。そしてその「田園都市」は土地のコミュニティ委託、公有も含めて市場の論理とは異なる契機を有している。以上の方向性は、コロナ禍で露呈した市場の論理の暴走、その市場によるグローバル化、自然破壊などの限界を地域において克服するものでもあろう。
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