雨宮昭一の個人研究室

政治学と歴史学と地域の研究をしている雨宮昭一の備忘録です

蠟山政道の理論の射程

 2019年5月25日に占領・戦後史研究会があり、王継洲さんの「蠟山政道の政治学に対する考察ー国家論を中心にした」の報告があった。蠟山の理論の内容を先入観を持たずに説明した優れた報告であった。これに対していくつかのコメントをしたのでここに記しておく 

1、これまでの蠟山の政治学については多くのすぐれた分析があり、最も優れたものの一つに三谷太一郎さんの「日本の政治学アイデンティティを求めてー蠟山政道の政治学の模索」『学問は現実といかに関わるか』東大出版会、2013年、がある。そこでは蠟山は『「国民協同体」および「東亜協同体」の崩壊によって・・・『学問的破産』に逢着した』(126頁)とされる。しかし蠟山が取り組んだ資本主義と自由主義の生み出す問題への対処としての「国民協同体」と「東亜協同体」の課題は担い手や条件は変化しても依然として現在まで持続しているのではないか(雨宮「小金井市近現代史から市の現状と課題を考える」『地域総合研究』12号、2019年3月、、59

頁 )。       2、戦前における資本主義の生み出した問題への対処を、手放しの自由主義や市場主義でも、ファシズム共産主義のような独裁でもない方法で対処しようとしたのが「国民協同体論」であり「東亜協同体論」であり、「立憲的独裁論」である。蠟山はアメリカの政治学者エリオットの理論に依拠してアメリカの憲法に基ずく多様なものの有機的統一としての協同体的有機体論と立憲主義を取り上げる。それにもとずく「国民協同体」の集合が「東亜協同体」とする。これらを上記対処に無効であった「自由主義」「「社会民主主義」とは異なる有効な方法とする。

 この協同体はゲノッセンシャフトとして構想されているが、三谷さんも指摘されているように一時期蠟山は「国体」-ゲマインシャフトに非常に接近した。論点はこの内外の「協同体」は“文化多元主義”でありえたのか、今後ありうるのか、である。もう一つの論点はゲマインシャフトリヒになるナショナリズムが戦後も存在しているがその状況から“おりないで”その渦中で理論はどうありうるか、である。

 3、蠟山の理論は戦前戦時と戦後に断絶でなく連続している。かつそれらを連続させつつ発展させている。それゆえに第二の国体、協同主義と内外の福祉、そのための開発と高度経済成長、という戦後体制の言説のメインコンテンツを生産しえた(雨宮「戦後体制の言説生産の場と主体ー廣田直美『内閣憲法調査会の軌跡』と関わって」『占領・戦後史研究会ニューズレター』2018年1月、21頁)。

 さらに蠟山の理論は歴史を考えるとき様々な広がりを持つ。例えば協同主義者の矢部貞治がブレーンであった池田内閣を私は“立憲的開発独裁”と指摘したことがある(雨宮ブログ2017年7月28

日)。岸内閣も開発独裁的な側面を強く有しているが岸は第一の国体(戦前の体制)のもとでの立憲的開発独裁であるのに対して、池田は第二の国体(戦後体制)のもとでの立憲的開発独裁といえるのではないか。55年体制は一種の「委任独裁」であるからである。いずれにしても蠟山の理論の射程は広く長いといってよいだろう。

 

2019年度歴史学研究会現代史部会ー55年体制、保革の越え方、68年、近代とポスト近代

 5月26日に久しぶりに歴研現代史部会に顔を出した。テーマは「平和運動を歴史化するー冷戦史の解釈枠組みを越えて」で、報告者は日本―神戸については黒川伊織さん、ドイツについては竹本真希子さんのお二人で、いずれも演釋的でない豊かな報告と議論であった。ここでは私の狭い関心とクロスした論点のみにふれる。

 第一点は黒川さんの日本共産党の1955年体制論である。彼女は戦前から55年まで共産党属地主義で党員は国籍を問わずその地で運動していた。しかし55年に属人主義となり他民族、他国民と分離して運動も「国民化」したという。私はかって55年体制、を社会党統一、保守合同共産党六全協を内容として成立したこと。そこでは改憲意図の挫折による保守の日本国憲法秩序への参入、と、共産党の暴力的方法から合法的方法による変革への移行、すなわち日本国憲法秩序への参入がなされたことをのべた(『戦時戦後体制論』1997年、岩波書店、127頁)。この共産党の二つの55年体制は二つの側面というべきであるがその連関と展開は興味あるところである。

 第二点は黒川さんの神戸での運動内での違いを対立させなかったり、多様なエスニシティも含む主体の連携を豊かに紹介されている。これは私が「1950年代社会論」で50年代には保守と革新があり、その中で社会においては革新勢力が保守革新の境界をこえた実践によって社会におけるイニシアティブを有したことを指摘した(同前、161頁)ことと響きあっているように感じる。実際、対立が存在しているその最中に、対立を越える実践抜きにはオルタナティブなクリエイティブな運動はあり得ないのだ。

 第三点は89年と68年の問題である。黒川報告でも前者に触れているし、私もポスト冷戦とポスト戦後体制について触れてきた。後者68年については「運動が組織中心から個人中心へ」といわれるが黒川さんはエスニシティもいれた「市民的ネットワークが展開した」ことと述べた。68年については私は私の体験(当時大学院生)からも、関わってきた「総力戦体制論」からも、次のように考えてきた。つまり戦前戦時から展開する階級社会からシステム社会への移行のある画期として68年ごろがあり、システム社会への抗議とシステム社会を越えようとする運動として新しい社会運動が現れたこと。それが社会の「非物質的価値観」への移行と関連するとよく言われるが、私の同時代的実感では“非物質的支配”の強まりへの抗議であったように思う。いずれにしてもこの非物質的事態は高度成長の「成果」でもあり日本人に物質的な豊かさをもたらしたことと無縁ではない。同時に上記のエスニシティなどの運動はアイデンティティにかかわるが、それはある意味で、“非物質的”でありそれゆえ“非物質的”な条件の中で展開するのではないかと思われる。そして以上のような“68年”が89年を準備したと思われる。

 第四点。コメントで米谷匡史さんが68年は「細分化、個別化して細かく分けて研究させる在り方への批判」と述べ黒川さんが賛意を表し「自分は神戸ではたこつぼでなく広げている」と応じた。両者とも説得力がある。私も地域の多様な人々と調査や研究をしているがまさにたこつぼではなく広げること以外にそれらはあり得ない。そのうえであるが多様な人々と連携をするためには、自らの「専門性」という「近代」の在り方の媒介抜きには私の場合はあり得ない。「近代」を越えるとは一面では「近代」に徹しなければ不可能なのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

[一強」の今とこれから

 最近テレビで古賀誠氏が「安倍首相の後任は菅官房長官が適任である」と述べたのを聞いた(8日BS日本テレビ)。彼は岸田派宏池会の名誉会長であるが岸田氏が今首相になれば大変苦労する、とのべている。菅氏は土のにおいのする点で今の自民党に要請される資質を持っているとものべている。これらに関して感想を書いておく。          調べてみると菅氏は秋田県の精農で生産組合などを大事にする父親のもと、叔母、姉妹などが地域の教育者になっている家庭で育ち,,,自分の力で大学を卒業した。その後代議士の秘書、横浜市議などを経て衆議院議員となった。この過程で小渕派古賀派ー無派閥となり梶山静六氏を師とした。梶山氏については筆者が1970年代に辻清明先生たちと茨城県議会史執筆のためヒヤリングを行い、そのリアリティ、識見、決断力、戦争に対する批判、などに驚いたことがある。そして菅氏は田中派宏池会の流れにもかかわりがあることになる。さらに安倍4選,5選を公言し、菅氏を安倍後任に押す二階俊博自民党幹事長やその派閥も田中派の流れを継承しているように見え、対外関係、国内問題についても安倍首相たちとは対立するわけではないが必ずしも同一ではない。

 こうしてみると安倍首相や菅氏を支持する要人たちがその経歴からも同一でなく多様な考えを有していることがわかる。一強とよく言われるがそれは異なる考えを持った多様な人々とグループの多様な思惑の均衡の中のものであることがわかる。したがってまた菅氏が後任になったら田中派宏池会梶山静六安倍氏的なものなど様々な要素が顕在化するのは自明であろう。古賀氏や二階氏はかくして菅氏を自立化させる。   これら全体をみるとそこに戦後自民党の豊かな歴史的厚みを見ることができるだろう。なお古賀氏が岸田氏が後任になった場合に苦労するといったのは安倍的な勢力におされて岸田氏の考えていることがほとんどできない、と考えているように思える。菅氏の場合は安倍的なものをコントロールできる可能性を見ていると思われる。

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五月の俳句

体調を少しくずしたが回復しつつあるので、俳句をつくった。小金井公園の建物館をおもいだしながら。

棟の間の五月の空の三センチ

行く春を縄文晩期の丸木舟

川原石の古墳の下の夏の川

万緑を分けて七千五百型都電

復元のその復元の夏屋敷

若葉色のドレス銀杏若葉の只中へ

三四郎の硬い若葉や今もなお

漉し分ける石舛の夏青光り

2019年4月の俳句

菫にも満開といふことのあり荒小庭

忖度元年政権花吹雪

花の下子供のような母四人

特養のバスより五人花衣

銀色に咲きてまばらな藪辛夷

講終て花満る中帰りけり

ひっつめ髪の媼美し路の春

送られてきた文献

 4月になったが3月17日の報告と討論の余波が録音の電子資料で読んでいることもあってか、なかなか薄れない。この間、私の研究ノート「小金井市近現代史から市の現状と課題を考える」の抜き刷り、とそれが掲載されている『地域総合研究』第12号、2019年3月、およびここ何年か、私も参加した大原社研のメンバーたちとの戦後の日本社会党、および総評の書記局の22名の人たちのヒヤリングを集めた同研究所、五十嵐仁、木下真志編『日本社会党・総評の軌跡と内実ーオーラル・ヒストリー』旬報社、2019年3月、が送られてきた。

 前者をすでに読んだ何人かの若い人からは,ここでの「下から、基層、地域から」との視点から「上から」との対抗を要求されている。しかし私は上下の対抗ではなく、「下の」動きをふまえた「上からの動き」のオルタナティブも出すべき、といっているつもりである。またこの文献が「わかりやすい」と私の参加しているある都市の審議会にコピーして配布されたのは少しうれしかった。後者はあらためて読み始めたがヒヤリングの時を思い出しつつ、書記局の人たちであるがゆえに実質的な情報が豊かに表出されていて残る仕事だと思う。