雨宮昭一の個人研究室

政治学と歴史学と地域の研究をしている雨宮昭一の備忘録です

2019年12月の俳句

よそおいの静かに終わる甲斐の山

成人の一人一人に雨やわら

成人の日のますぐなる紀尾井坂

休日もラッシュの中のクリスマス

段差なくつまずいているクリスマス

満足すだから転職クリスマス

雄鳩が膨らんでいるクリスマス

駆け込まない立ち止まらないクリスマス

猫夜を斜めに走るクリスマス

罪全部イエスにではなくクリスマス

すどうしのメガネが似合うクリスマス

音もなく時雨が走る猫走る

洗いたる大根の白さ寒の入

特攻日和てふ日和ありしと蝉時雨

政治史の豊かな展開

 本月12月15日の第5回協同主義研究会での「「協同主義とポスト戦後システム」再論ー社会的連帯経済・再編福祉国家論・MMTと関連させて」と題する報告を終えてしばらくぼーっとしていたが、そのほかに参加した研究会で気がついたことを書く。

 11月30日歴科協大会、12月7日同時代史学会大会に参加し、前者ではプーランザスに関する報告での「階級」の強調に対して、資本主義システムないし自由主義システムとして多様な主体の多数派形成をめぐるヘゲモニーを考えるべき、などと発言した。

 後者については発言はしなかったが感じたことがあった。大門正克報告については過去と現在の往復とか、経験による認識の変化などのそれ自体は生きる人間個人にとっても、研究者にとっても自明のことが全体の歴史の認識や構造にいかに関連するか、がコメンテーターの岩崎稔さんや源川真希さんから指摘された。大門さんはそれが今後の課題と応じた。

 「日本政治史研究と「歴史表現」」と題するコメントにおいて源川さんが、90年代の戦前・戦時政治史、外交史の流れを、戦後歴史学、丸山政治学、実証的政治史を起点として、天皇制国家論、ファシズム論争などを経ての現状を一覧表にして見事に整理された。そして今は戦時の中の議会や市場の「合理性」を評価する「実証主義」的政治史が主流になっていると論じる。

 この整理は多くのことを触発させてくれる。第一には政治史にもっと多様な展開があったのではないか、第二にはそれと関連してその展開によって「実証的政治史」の前提がつくられていてそれらを考えると今後、もう少し異なった展開がみられるのではないか。

 第一の点については、源川コメントでは取り上げられていないが、80年代90年代に新しく形成され、展開された政治社会史、地域政治史、都市政治史、農村政治史などである。そこでは小作農民や労働者、雑業層の自己認識や行動と政治過程のトップレベルの動きを立体的にとらえたものである。この点でいえば源川コメントの資料⑥での「実証的政治史」の坂本一登氏の「政治という活動に携わるのは、概して少数の指導的人物であり、政治史は必然的にエリートの歴史となり、社会の大部分やエリート以外の人間の営みを視野から落としてしまう」が「重要な歴史の一分野であることは動かない」と述べるが、上記の政治社会史、都市政治史などはその二項対立を方法的、実証的に具体的に克服したのである。その多様な展開については例えば、中村元『近現代日本の都市形成とデモクラシー』2018年、吉田書店、の研究史整理などがある。

、 第二の点については、戦時における議会や市場の「平時]的あり方については、戦時と戦後の連続性を指摘した総力戦体制論などがその認識のパラダイムを形成したことは間違いないだろう。さらにそれと関連する潮流論などにより、例えば「市場」や「議会」や[政党]にインタレストを持つ戦時期でも有力な潮流の指摘などが既にある。たとえば源川コメントで実証的政治史の例として挙げられている米山忠寛『昭和立憲制の再建』2015年、千倉書房、の研究史部分も関連している。その文献に正面から向かって的確な書評が有馬学氏によって行われている(『大原社会問題研究所雑誌』735号、2020年1月)が、そのなかの政治勢力の「闘争」か併存か、戦時戦後の連続か断絶か、終戦過程における政党勢力の位置ずけ、翼賛選挙の評価などの論点は上記の第一、第二の論点と関連させればいっそう生産的、創造的に展開できうると思われる。

 

 

雑草愛と雑草絶滅欲

 先日句会の後の飲み会で、庭の雑草取りを腰が痛くなっても三度まではがんばる、とかとにかく雑草を一本もはやさないようにしているとか、少し忙しくて伸びていたら隣の奥さんから体でもこわしたのですかといわれたりとか、友人が少し雑草をのばしていたらゴミ屋敷と同じにみられたりとか、すべての人が雑草をなくすことに苦労している。

 私の近所でも雑草を一本もはやさないように生えてきたらすぐに除去し、除草剤を季節ごとに散布している家が多い。それでも雑草はどこかから飛んできて生える。このようなほとんど前提を問わず全社会にある雑草絶滅欲望とはなんなんだろうか。

 私の書斎の横に五坪ほどの小さな庭があるが春夏秋冬雑草だらけである。名前はわからない(そもそも名前をつけることが傲岸不遜と思うが)が数えてみたら二十四種ぐらいある。それらがいずれも季節が来れば芽を出し、茎をのばし、花を咲かせ、実をつけ、枯れていく。太陽の光を求めあい、それが少ないものはすぐに小さいまま実をつけ、来年につないでいる。たとえばあるつる草は、枯れる時期にある背の高い草に巻き付き、上の方まで太陽の光を確保しようとする。そして頂上につきとりついた草が枯れると今度はつるを下におろして、そこから葉っぱを出し、小さな花を咲かせ実をつける。

 それぞれの大小、多様な、やさしい芽、葉っぱ、花、実、それらへの折々の様々な光、雨、風、そして無数で多様な昆虫たち。その二十数種の草の営みと関係はまさに多様で豊穣である。人間が何も手を加えずに展開されるこのありかたを私などはこころから愛してしまっている。ベランダに置く植物でも当初は人工的に育てられたものを置いていた。狭いこともあって一季節ごとのものが多かった。世話はしてもそれらはほとんど当然だが一年,一季節で枯れた。しかしそのままにしておくとそれぞれの鉢に雑草が生え上記の営みをおこなってくれている。

 もちろん私は可能な限り庭では隣接五十センチ幅ぐらいは草の丈を短くしているが雑草は実に美しくたくましく深いところで生きる力を与えてくれる。

11月の俳句

秋澄みて都市の礫川白々と

大手町都市の紅葉ななかまど

旧石器よりの営み野川湧水

藤袴咲きたりと告ぐ母の墓

あつかんやぐちぐちぐちるやさおとこ

なにいってんだかわからんけんど石蕗の花

秋の池かすかに揺らす笹の音

諦念とは明らめること曼殊沙華

行く秋の武蔵野崖線萩一輪

負けた鮭模様をかへて射精する

研究会でのおおまかなコメント

 10月26日に東京経済大学で「牧原憲夫と語る会」に参加した。配られた資料から、氏は、例えば朝鮮史において民衆から朝鮮が植民地になぜなったかを考えてほしい、という論点をだしている。これまで国家、権力、に関わらない「主体」としての民衆像を牧原氏は主張していると私は思っていたが必ずしもそうでなかったことがわかった。

 しかしそのうえで氏と方法を同じくする当日のコメンテーターにも共通することだがやはり権力への民衆の対応の方法がどんどん緻密になっていくが民衆が権力を持つ(民主主義の自明な話し)時の対応とそのコンテンツが見当たらない。私はその対応とコンテンツを協同主義を中心にかんがえている。

 11月2日に法政大学で占領・戦後史研究会例会があり、浅井良夫氏が1970年代の東アジア経済史を、一つは貿易を中心としてアメリカ、インドもいれて戦前も含めて水平的関係としてみる研究潮流と、戦後も含めて垂直的関係としての植民地関係からみる潮流があることを紹介された。私は垂直=植民地、水平=貿易、ではなく、とくに東アジアでなくとも、水平になった、とくに独立以降水平になった本国―植民地関係と地域として、各々の振る舞いとコンテンツが既に存在し、その関係とネットワークが叙述さるべきとコメントした。

 11月7,8日と京都で院生時代以来の友人の大嶽秀夫氏と戦前、戦時、戦後の日本、イタリアの比較研究プロジェクトを中心に議論したがこのことについてはおいおい書くことにする。

 

2019年10月の俳句

一粒の水の迅さや大野分

真二つに割る栗のいが富士の山

野分過ぐ耳鳴りのみのしんしんと

野分過ぐ東京の月かあくかあくと

風通し目通し千年枕草子

老媼二人置きたる大花野

咲きみだるる百日草や生家まで

      以上

 

表現の自由

 今日、あいちトリエンナーレのことを書いたが、それと関連して私的なことを思い出した。私が勤めていたある国立大学の研究所の所長をしていた15年近く前のことである。

 研究所の講堂で折からの社会科教科書をめぐる公開研究会のような催しを所員の何人かがやりたいので所長の使用許可を求めてきて許可した。するとその研究会の数日前から反対の右翼が街宣車を出して行動する、との情報があり、大学の幹部が危険なので研究会をやめてほしい、所長が使用を許可しないでほしいと何回かいってきた。かなりパニックになっているようであった。

 私は「大学には学問の自由、表現の自由、があるから中止はしない」「右翼にも表現の自由がある。規則を守って街宣するのは何も問題ない」「大学当局は警察にその街宣が法と規則に違反しないよう対処してほしいことを言えばよい」といった。

 結局研究会は開催された。所長室で相当緊張していたが街宣車も静かに街宣し、研究会も覗くと批判派、賛成派が議論しておりにその中で批判、賛成と違う次元に議論が発展していた。