雨宮昭一の個人研究室

政治学と歴史学と地域の研究をしている雨宮昭一の備忘録です

雑草愛と雑草絶滅欲

 先日句会の後の飲み会で、庭の雑草取りを腰が痛くなっても三度まではがんばる、とかとにかく雑草を一本もはやさないようにしているとか、少し忙しくて伸びていたら隣の奥さんから体でもこわしたのですかといわれたりとか、友人が少し雑草をのばしていたらゴミ屋敷と同じにみられたりとか、すべての人が雑草をなくすことに苦労している。

 私の近所でも雑草を一本もはやさないように生えてきたらすぐに除去し、除草剤を季節ごとに散布している家が多い。それでも雑草はどこかから飛んできて生える。このようなほとんど前提を問わず全社会にある雑草絶滅欲望とはなんなんだろうか。

 私の書斎の横に五坪ほどの小さな庭があるが春夏秋冬雑草だらけである。名前はわからない(そもそも名前をつけることが傲岸不遜と思うが)が数えてみたら二十四種ぐらいある。それらがいずれも季節が来れば芽を出し、茎をのばし、花を咲かせ、実をつけ、枯れていく。太陽の光を求めあい、それが少ないものはすぐに小さいまま実をつけ、来年につないでいる。たとえばあるつる草は、枯れる時期にある背の高い草に巻き付き、上の方まで太陽の光を確保しようとする。そして頂上につきとりついた草が枯れると今度はつるを下におろして、そこから葉っぱを出し、小さな花を咲かせ実をつける。

 それぞれの大小、多様な、やさしい芽、葉っぱ、花、実、それらへの折々の様々な光、雨、風、そして無数で多様な昆虫たち。その二十数種の草の営みと関係はまさに多様で豊穣である。人間が何も手を加えずに展開されるこのありかたを私などはこころから愛してしまっている。ベランダに置く植物でも当初は人工的に育てられたものを置いていた。狭いこともあって一季節ごとのものが多かった。世話はしてもそれらはほとんど当然だが一年,一季節で枯れた。しかしそのままにしておくとそれぞれの鉢に雑草が生え上記の営みをおこなってくれている。

 もちろん私は可能な限り庭では隣接五十センチ幅ぐらいは草の丈を短くしているが雑草は実に美しくたくましく深いところで生きる力を与えてくれる。