雨宮昭一の個人研究室

政治学と歴史学と地域の研究をしている雨宮昭一の備忘録です

世界史と同期する中国共産党

 三品英憲さんから『中国の国家体制をどうみるか―伝統と近代ー』(汲古書院、2017年)をいただいた。ここではその中の三品さんの論文「近現代中国の国家・社会関係と民衆ー毛沢東期を中心に」にコメントをしたい。三品論文の30年代40年代の中国共産党中央の少数の地主が大多数の小作を土地所有と現実で圧倒的に支配している、との農村認識が現実とギャップがあるのに、それを修正しないで基層幹部・党員の「階級的不純」に由来するするものとして各過程で処理したことによって、操作性が高まり、その構造が中華人民共和国に連続していく、との分析は豊富な史料と理論展開とあいまって説得力がある。それを前提にした上で中国史には全く無知な者の思いついたことを書いておく。

 その一つは中央が上記農村認識を修正しない理由と背景についてである。逆にある戦略と認識があってその「認識」をつくったのでないか、つまり現実の自作農中心の農村秩序の破壊こそがその基本にあったのではないか。面白いのは基層幹部・党員たちもその秩序からの影響と規定を受けていることへの中央の不断の警戒は見事にそれを示しており、史料も示している。

 上記破壊の方法も「群衆」をつくり今ある秩序を壊す方法である。この「群衆」は中央は知っていたかもしれないが、ルボンのいう無定型で暗示で動く「群衆」に近いのではないか。そしてこの破壊はグライヒシャルトンクである。それは古いもであれ新しいものであれ、封建的なものであれ近代的なものであれ、自立性を有するものを破壊することである(雨宮『戦時戦後体制論』岩波書店、1997年)。その意味では中国共産党は世界史と同期する現代性を共有していると思われる。“自作農中心の農村”の“自立性”の存在と契機と可能性、ドイツ、日本、ソ連など他の場所ではグライヒシャルトンクの後があるが、中国でもポストグライヒシャルトンクなどを考える余地があると思われる。以上はあまりに中国の「伝統」に還元することへの違和感からのものでもある。

 

8月の俳句

相聞の河鹿の声のくぐもりて

空論と空理の境生業の秋

ちゅーちゅーと原爆の日のドリンクを飲む

合縁と奇縁のあはひ蜻蛉交

渓流に揺るる鬼百合闇香る

その先を迷っておりぬ瓜の蔓

揺れやまぬ一木の一葉秋意かな

川は澄み河鹿は鳴けり物な思ひそ

 病院を三歩離れて蝉時雨

 

 今月は俳句を考える時間が多かった。

内側に足場をおきながら一方通行にならず維新史をサクセスストーリーでなく見る方法の検討

 『歴史学研究』の2018年8月号に後藤敦史氏が「異国船はなぜ来たか.」という論考をよせられている。その趣旨は内側に足場をおく一国史観は一方通行的になり明治維新をサクセスストーリーとしてみてしまう。それを相対化するためには研究戦略として東アジア海域から見ることが考えられる、一度内側から離れて見る、というものである。基本的に同意できるものである。

 しかし内側のあり方を変えないと結局一国史観に回収されてしまう可能性が大きい。それゆえ内側に足場をおきながら一方通行にならずサクセスストーリーを紡がない戦略、一国史観を内側から相対化するためには内側の主体のあり方を変えることである。つまりつくられつつあった一体としての日本人、一体としての日本ではない、現実に存在した多様な地域を主体とすることである。そのためにはそれら一体をつくってきた薩長史観、とベクトルは同一の反薩長史観、官軍史観と賊軍史観、の相対化である。NHKドラマの如く薩長と龍馬ががんばって立派な近代国家日本をつくったという、物語、とベクトルは同一の自由民権、政党政治青年将校運動などの反薩長史観の両方が補完し合いながら近代天皇制をつくり東アジアに被害を与え、自滅した。しかも両者とも責任をとらず、このまま同じ史観でいれば繰り返すことになるだろう。そこで薩長史観、反薩長史観、一体としての日本人、日本とはことなる現実の多様な地域を主体として立ち上げ、それぞれが「維新」を内にいながら外に見る、海域をそれぞれ見て、ときに連携する、ことをなすし、なしたであろう。

 以上のようなことを当面、甲州、水戸、

石見地域を例に詳しくは最近の拙著『協同主義とポスト戦後システム』(有志舎)第二章、216ページ、257ページなどでのべているので参照していただくと幸いである。

 

 

 

収集史料の委託

 若い時、もう50年以上前から、研究過程で自分で集めたり、史料所有者から委託されたり、原史料を借りてコピーしたものが相当数あった。どうするか考えていたが、その多くは私が茨城大学にいた時に集めたものがおおいので、茨城県の歴史館に委託することにした。2014年に段ボール箱20箱ほどである。それを整理され、3237点の目録化をされたのは瀬谷義彦先生の薫陶を受けられ、「茨城地方史研究会」などでも活躍されている久信田、野内、富田各氏を中心とした方々であり、感謝にたえない。

 さらに本年7月に残った段ボール箱5箱ほどを茨城大学の私のゼミナールOBの玉造君と瀬尾くんに歴史館にはこんでもらった。手元にあった茨城関係の史料は一応一段落した。貴重な原史料のコピーも原史料がよくあることだがなくなっていることもあり、大変貴重である。とにかくたくさんの方々のおかげで時間はかかるかもしれないが、公共的に残されることに感謝したい。

 その原史料コピーで重要なものがあり、国会図書館憲政資料室、ならびに東京大学法学部近代日本法政史料センター原史料部の知人にも協力してもらって調べたら、同じものが私がお借りしてコピーしたかなりあとだが寄贈されていることもわかったものがあり、その旨はコピー史料に添付するつもりである。

 

 

 

蝋山政道における起承転結、米朝会談の意味

この間体調を崩し、ブログを休んでいたら何人かの若い友人から「催促」もあり、体調も回復してきたので書くことにする。

この間、『占領戦後史研究会ニュースレター』2018年6月に「戦後体制の言説生産の場と主体」という文章を書いた。そこでは蝋山政道が戦後体制の言説のメインコンテンツとして、第二の国体、協同主義、福祉と協同主義のための開発と経済の高度成長、を述べてきたこと、晩年にはそれらの特に開発の限界を自ら自覚していたこと、そのあとを私達はどう引き受けるか、を記した。蝋山のある側面の起承転結を、あるいは戦後体制のある側面の起承転結が書けたかもしれない。

 もう一つはこの間の米朝会談の位置と意味である。長いメモを書いたが文章にするのは後にする。この会議は、不断に「ならず者国家」を生み出す「無条件降伏モデル」に基づく戦後体制の一つの越えかた、超えかたの実践であり、それによる次元の変化を前提として外交や民間の刷新がなされる必要があると思われる。

 

 遅れたが6月の俳句

決勝の壁と希望へ雲の峰

たえまなき迷子放送若葉光

粗塩で食みし青梅遠い空

花あふち一日(いちひ)一時(いちとき)一事(いちじ)を愛す

 

 

5月の俳句 吟行場所としてのスーパーマーケットとその結果

昨日、市井の日常の場の一つとして選んだスーパーマーケットに吟行した。そのあとの句会ではいつになく豊富で多様で具体的な俳句が披露された。

カーネーションのあたりの品の影深き(いつこさんー以下さん省略)

メロディーとともに売らるる新茶かな(ひでお)

一望の

棚商いや風は初夏(じゅんこ)

ピンヒール試すをんなや夏帽子(みさ)

レジ前に並ぶ籠みな春キャベツ(みさ)

などなどかあり、先生の特選も普段のニ、三倍であった。今回の吟行の場所設定は会の

俳句の刷新というよりも次元をあげたとおもわれる。

 わたしも日常を日常として詠むために言葉を出来るだけ無意味にかつ言葉の間を出来るだけ無関連に詠むことにいたった。それが

厚揚げとパンツあがなひ新緑へ

である。これをほとんど正確に解釈して推薦してくれた会員がいた。その他に私が詠んだ句。

 ひっぺがす玩具売り場の五月の子

それぞれの孤独五月のフードコート

それぞれを知らず五月のフードコート

整理用品の整理必要夏に入る

君のままでいいといふ本梅雨の入り

紋白蝶斜めに降りて風を分け