雨宮昭一の個人研究室

政治学と歴史学と地域の研究をしている雨宮昭一の備忘録です

俳句の現在地

 まだ知人になって短い田子慕古さんから、彼の第一句集である『霧襖』(東京四季出版、2022年)をいただいた。田子さんは、50歳の時、職場の俳句部にかかわって俳句を始められ20年たち古希となった本年に出版された。序を寄せられた「秋麗」主宰藤田直子さんがそこで選ばれた34句、ご自身の選12句はいずれも秀句で、他に、

 水打つて庭の姿を取り戻す

 草の根を引きて大地に引かれたる

 銀杏の実飢え忘れたる我を打つ

などなどいずれも秀句332句が収められている。これは田子さんの俳句の現在地を示しているといってよい。

 それに触発されたわけではないが、俳句を始めて数年の初心者であるが、年齢だけは、昨年喜寿を迎えた後期高齢者の私も、私なりに、他の人たちによる評価を入れて現在地を記したいと思う。

 俳句を詠んだ最初の記憶は小学三年生の夏休み日記に、担任の武井先生から大きなはなまるをもらった、

 雷に追われる夏の使いかな

を詠んだ時である。育った地は、蛇笏の「芋の露」と「連山」が水平に直線で見える高地の自然と、俳句,和歌、謡、絵画、野遊びなど自前の雅な文化を持つ東山梨の高地の村であった。以来,詠むことなく過ごした。

 仕事は社会と政治の歴史を研究することで、『占領と改革』(岩波新書、2008年)を書いた時も傍に『飯田龍太全集』全巻を置いていたように、俳句は読んではいた。詠むようになったのは、定年後にもう一冊専門書を出した後で、今から5年ほど前に地元の俳句教室、2年前の「澤」への参加以来である。句といえるかどうかわからないが、身体という楽器からの音の如く、句を作ることはほとんど苦にならず、五百句ほどが詠まれている。それは三つの類型にわけられる。

 第一は〝「ただごと」俳句〟で、日常記録、日記に近いものであり、本人には大事な事だが、読者には「ただごと」の場合が多い。第二は、〝日常あるある俳句〟第一をもう少し深く広く観察して作ったものであるが、それが既存の視角である場合である。第三は〝「アート」としての俳句〟である。既存の視角、既存の日常感覚ではなく、メタファーや構成による、既存の意味、定義、境界を越える、つまり新しい視角、新しい日常感覚、未発見の日常感覚の発見と表現であり、「アート」「詩性」と呼ばれる。

 一、二が俳句である,三のみが俳句である、などの議論もあるが、私はこの三つは相互的であり、俳句はこの三つがあることによって、既存の「アート」に解消されない社会的広がりと深さをもったアートたりえていると思う。以上が私の俳句をみた私の整理であるが、具体的な現在地を考えるためには、他者による選句とコメントを参考にしようと思う。

 親しい友人たちからの選句とコメントはのぞいて、ここでは、句誌での、各号の「十句」、一年間の「十句」、新人の句紹介、特撰、特別作品賞候補からの選者による選句、句会での特撰、さらにブログなどの、各月の「十二句」「四十句」などに取り上げられたものである。

 秋蝶に兵士の列の乱されず

 前の世に見しごとき街春の雪

 落花落花こと終わることの明るさ

 厚揚げとパンツあがない新緑へ

 波荒く若布刈棹富士を断つ

 土塊の面魂や春一番

 開戦といふ犯罪原爆といふ犯罪

 鮒に戻る金魚まどろむ澱みかな

 サンドレス席は静かに埋まりゆく

 雨粒のすべて異なる春の雨

 花満ちて同姓の墓二十ほど

 へこきむしへこいてくさにへこたれず

 砂に立つ二個の目のみの鮃の不安

 死者生者共に笑へる夏の夢

 岸信介の顔に似ている桃の種

 蛹脱ぐ蝶の目静か甲斐連山

 旧暦七月同じ日ずけの墓ばかり

 風雲急てふ言葉をみたり野分空

 にはとりと目があったから冬が来る

 一時はかの世の命初御空

 行く春や縄文晩期の丸木船

 万緑をわけて七千五百形都電

    万緑や父喪ひし日の如く

  大き蟻小さき蟻に道譲り

     手花火や家族明るい黙つくり

などである。

 その中で、前述した、俳句の三類型の相互性について、私の句に即して見事に解読されたものがある。面識のない鈴木弥佐士さんの「令和三年の澤の俳句」一句鑑賞」(『澤』本年八月号)に寄せられた文章である。短文なので、全文収録させていただく。

サンドレス席は静かに埋まりゆく  雨宮昭一

                  8月号

 観劇あるいはコンサートのホールであろう。かすかなざわめきが細波のように広がる。季節は夏。冷房の効き目もほどよい。もうすぐ開演のベルが鳴る。

 とそれだけのことのなかに、映像や音声では捉えきれない何物かを作者は感得したのだ。それを具現化し他者に共感を誘起するツールとして、俳句以上のものはなかろう。しかもこの淡々とした詠みぶりから、作者が世界をどのように捉え、関わっているかさえも窺い知れる。句材に頼らず、俳句そのものの力を端的に示す好例と思う。(鈴木弥佐士)

 俳句は読者五十パーセントといわれるが、この場合のように八十パーセントのこともある。いずれにしても鋭敏な読者、他者によって俳句は豊かにされていくと思う。これからも多くの人に支えられて俳句を読み,詠み、楽しんでいきたいとあらためておもう。