雨宮昭一の個人研究室

政治学と歴史学と地域の研究をしている雨宮昭一の備忘録です

「生活社会」を独立変数にして考えるーコロナ禍、ウクライナ、台湾「有事」によせて

 最近、コロナ禍やウクライナ戦争への対応をめぐって、権威主義国家対民主主義国家の違い、対立などの議論がおこなわれている。民主主義国家は、政策決定も実施も市民社会の意向を自律的な政党や議会をとうして行い、権威主義国家は、それを一党制や政府独裁で行うと言われている。

 そして、その違いは国家と市民社会の関係を集約する政治体制-国家体制の違いとして語られる。そこが主なポイントとされる。しかし、それが、最上位のものー独立変数とすることは自明であろうか。社会の問題として言えば、権威主義国家においては、一党制や政府独裁によって支配されているが、「民主主義国家」は社会を支配していないのではなく、ありていに言えば資本に市場に支配されていることを前提にしている。

 その前提は自明であろうか。社会は一党制や資本に一方的に支配されているのだろうか。社会は一党制や資本による政治体制ー国家の従属変数なのか。社会が一党制や資本の意図するとうりに動いてはいないこと、それ以外のそこで生活している人々の互助的営為でうごき、支えられていることは、この間のコロナ禍の中における両体制の国の実態を見てもわかるだろう。資本や一党制の政府-国家が隅々まで、全面的に社会を支配することなど、現実的にも構造的にもできないのである。つまり、非国家や非資本の側面が日常的、構造的にあるのである。

 その意味では社会が制度や国家のあり方を規定している、それは相互関係であり、どちらを独立変数とするかは、構造や学問的問題でもあるが、選択の問題でもある。もしも社会を独立変数とすれば、最上位に置かれるのは社会である。その時、これまでよく使われる市民社会という言葉は日本だけでなく世界的にも限界がある。つまり市民はブルジョア,とか、シチズンだとか、歴史的にも地域的にも限定された、しかもその作られた地域と時代のあるあり方を規範とするから、リアルではない。

 その地域、時代に生きている人々の生命と生活を社会として、それを最上位、独立変数とする、つまり、一党制や資本や国家を、その従属変数とするとすれば、社会を、市民社会よりも、「生活社会」とした方が適当だとおもわれる。このことによって、生活している人に即した西欧にもアジアにも通用するものとなろう。この生活社会という言葉は私の発明ではもちろんなく、日本の近現代の中でつかわれている、

 板垣退助は、1883年(明治16年)8月20日の演説で、政治と行政組織を「政治社会」とよび、その地域で生活している人々の状態を「生活社会」とよび、日本では前者は整い、藩閥政権として力をもっているが、「凡そ人間社会は生活の必要ありて然る後政治の用あり」しかし、日本では逆に「政治ありて然る後生活があるがごとき」として、それを逆転して、つまり「専制政治」を生活の側から変えることを提起している(板垣退助監修『自由党史』中、岩波書店、318頁。なお雨宮昭一『近代日本の戦争指導』吉川弘文館、1997年、160頁)。そのような使い方は政治の世界では共通していたようで、1905年(明治38年)に時の首相桂太郎は、日露戦争講和反対運動において車夫、馬丁など当時の都市で生活している「都市雑業層」の人々が外交政策のみならず、藩閥主導の政治体制の批判に至るのをみて「政事と社会を混同し」と危機感をあらわにしている。そして藩閥主導の政治体制は変化していくのである(雨宮「日比谷焼打ち事件」我妻栄等編『日本政治裁判史録』明治後、第一法規、1969年)。これまで触れてきた、歴史的、地域的に多様な、生活者とその人々が政治体制をかえていくのである。

 またウクライナや台湾「有事」との関連を考えると、今、ウクライナでは、民主主義国家と権威主義国家の対立、それがナトー派と反ナトー派の代理戦争の様相を呈している。戦争の原因は双方にある。ロシアは始めた側である。冷戦を終える時、ナトーもワルシャワ条約機構も廃止して全欧安保体制を、との方向を破ってきたのはナトー派である。さらに今反ナトー派がやっている従属国をつくり、その地域の文化を壊してきたのもナトー派はながくやってきたことである。つまりいずれも軍事を背景に相手を強制するという覇権主義であり、それが戦争の原因である。それゆえ、これまでブログでのべてきたように戦争を始めさせないためには、非覇権的勢力を集めて未然に防ぐこと、戦争が始められたらやはり非覇権的勢力をあつめ覇権勢力を分断したり、操作して戦争をやめさせること、そうゆう非覇権、非軍事、非暴力は、その地域で生活している人々の生命と生活を最上位に置くこと、独立変数とすることと一致する。戦争をはじめさせないためにも、戦争をはやくおわらせるためにも、何よりもその地域で生活している人々の生命と生活を守るために「非武装都市宣言」「非武装地域宣言」などを検討してもよい。以上が覇権主義による大軍拡、日本に即せば戦争をする国にすること、それを支えるための原発再稼働、新設などにどう対するかをかんがえるためにも、「生活社会」を独立変数として、政治体制、国家、資本、行政などをその従属変数とすることであり、私の試論である。人々がこれらの問題を考える時の参考になればさいわいである。、