雨宮昭一の個人研究室

政治学と歴史学と地域の研究をしている雨宮昭一の備忘録です

ロシア・ウクライナ戦争の終結の仕方

1,,出発点、前提をどこに置くか

1990年前後には冷戦体制がおわり、しばらくアメリカ一極支配が続いたが、それがトランプ政権の「アメリカファースト」のごとく、終焉をむかえて現在がある。現在の国際的問題は多様にあるが、ウクライナでの戦争、香港問題、台湾問題などが起きている。

 ここでは国家を越えた対外的な影響力・支配としての「帝国」の再形成、復活。主権国家の一元的支配、植民地から独立した国家の「民族自決」、その帝国、民族国家が有している「価値観」の押し付け、を最上位において軍事的手段を用いてそれらを実現しようとする、つまり暴力的手段を使って他者を制圧しようとする覇権的行為である。

 かくして「兄弟民族の統合」「五族協和」「共栄圏」のため、主権国家の一元的統治の完成のため、民族自決の名のもとに、さらに「民主的」とか「伝統」からある価値観を守る、と称して、その地域に住んで生活している人々を戦争に動員し、相手の國をはかいしつくす、あるいはその国のある地域に住んで生活している人々が中央政府、あるいはその政府を支配している勢力、と異なる制度や自立性を有している場合にそれを有無を言わせず弾圧する、以上のことを民族自決として公然と行う。このような「帝国」「主権的国家」「民族自決」「価値観」を最上位におく、出発点と前提を再検討、見直すことは可能だろうか。

2,異なる出発点とそれによる行動のあり方--人々の生命と生活

   以上と異なる出発点は、その地域に住み、生活している人々にとっては自らの生命と生活である。その生命と生活を、守るために、補完するものとして国際関係も、国家も「民族」も「価値観」もある。以上の主旨を表す多くの学説や理論もある。たとえば上記の「補完性理論」のアルトジュウスの、最終的に問題を解決する力として主権については、主権は地域に住むひとびとにあり、国家はそれを補完するものであり、したがって国家に主権はないということになる(なおアルトジュウス理論については福田歓一政治学史』東大出版会、1985年、第3章第3節。拙著『時代への向き合い方』2022年,、丸善、74‐76頁)。

 この出発点からすれば、「兄弟民族」統合のために自らの生命と生活を犠牲にすること、相手の地域の人々の生命と生活を破壊することは考えられないことである。そしてそうされた側のひとびとが「民族」の自立性をまもるために同じく武力で応じ、自らの生命と生活を犠牲にするべきではないことになる(もしそうなった場合の両地域の人々の対応については、ロシア・ウクライナ戦争の開始2日後の2022年2月26日ずけの私のブログを見てほしい)。

 また、中央政府の全土一元的支配のために、それと異なる制度や自立性を有したその中のある地域の人々の生活や自由を強制的に変えたり、制限することは再検討される。さらにその地域の制度や統治者が「自国」であれ「他国」であれ、自らの生命と生活を最上位に置く前提からすれば、その基準からいえば、極端に言えば「外国」やその制度を選ぶことは正当である。帝国主義の國による植民地、あるいは従属状態から独立したから、「民族自決」はなにをしてもよいわけはない。あるいはある「価値観」のために生命と生活を犠牲にすることなど自明ではない。

3,異なる出発点と「帝国」「国家」「民族自決」「価値観」との関係

 では、異なる出発点と「帝国」「国家」「民族自決」「価値観」は無関係であっていいのか。勿論違う。出発点となる各地域の人々の生命と生活を、維持し、守り、発展させ、つなぐために「帝国」ー国際関係や国際制度、「国家」「民族自決」「価値観」を作らなければならない。それは、強制による他の支配としての覇権でない、非覇権的国際秩序、暴力による政治ではない、非暴力の国内社会政治秩序、そして、暴力を引き出す対立や競争のシステムを競争でなく協同のシステムに変えること。以上の内外にわたる非覇権、非暴力、協同を各地域、国内、国際的に作っていかなければ、各地域の人々の生命と生活は守れないだろう。今、それらが現実的にどうなっているかの確認も含めて、ロシア・ウクライナ戦争の終結の仕方、終わらせ方を考えよう。

4,ロシア・ウクライナ戦争の終わらせ方

 この戦争については、第一段階として、覇権と暴力の集約としてのこの戦争を、国際国内地域の人々で、非覇権、非暴力の力を集め、行使して開始させないことであった。

第二段階としてそれができなくて開始してしまったら、軍事的にではなく、非暴力の抵抗と非協力による非軍事的「戦争」を行うこと。

第三段階として、しかしそれも行われず双方の武力衝突、しかも、両者とも覇権的なナトー諸国と反ナトー諸国の代理戦争の状態でウクライナ、ロシア双方の人々の生命と生活を破壊しつつある。

第四段階が今である。つまりこの戦争を終結させること、終わらせることである。そのためには。これまでの戦争の終わらせ方となにがちがうかを明らかにする必要がある。

これまでの戦争の終わらせ方-無条件降伏モデル

 第一次、第二次世界戦争などは、ふたつの覇権国あるいは覇権同盟の軍事的衝突で相手の国民すべてを巻き込み、無差別爆撃、相手に核兵器がない場合には核兵器を使用して、相手を完膚なきまで屈服させ、その後は「価値観」もふくめ敗戦国民を思うように「改造」する、という「無条件降伏モデル」であった(拙著『占領と改革』岩波新書、2008年、「はじめに」)。その後もベトナム戦争アフガニスタン戦争、リビア戦争などは、結果を別にして、いずれもこの「無条件降伏モデル」で覇権国により遂行されてきた。そして今度の戦争でも双方ともそのモデルで戦っている。

 しかし、今度の戦争はこれまでと異なる。二つの覇権勢力の対抗という点では共通しているが、前と違うのは両者が核兵器を持って居ることである。しかも第二次世界大戦後は、その戦争の勝者同士ということもあって、核兵器は使わないことが暗黙の前提になっていた。しかし、これまでの戦後の戦争と違って非対称的な両者でなく、代理的とはいえ、核兵器を持ち、国連で拒否権をもつ、二次大戦の勝者同士が、がっぷりと組みあっている。しかも、これまでと違うのは、今は反ナトー諸国であるが、核兵器をつかうことを公言している。核兵器が使用されれば、相互に報復し合うことによって、相討ちになり、相手を完膚なきまでに破壊する一方的な勝者はいない、つまり無条件降伏モデルは通用しない。こうして人々を巻き込んだ悲惨な戦争が長く続くことになる。

 ではどうするか。両者、および主要な支持国はいずれも覇権国である。そして多数を占めるそれ以外の国々は非覇権国である。そしてそれらの国々は戦争による値上がりなど被害を受けているのみならず核戦争の被害者にもなりうる。だとすれば多数を占める非覇権国を集めて、停戦,休戦、終戦の斡旋に入る以外にない。それを外交、世論づくり、利害関係を駆使しておこなわれるべきである。

 そして停戦は何も決定できない、その時点での状態のままであろう。不当な扱いを受ける地域の人々は、新しい「戦争」ー非覇権、非軍事、非暴力のねばり強い抵抗と非協力による戦いに転換する。つまり核戦争が新しい戦争一型とすれば、この非覇権、非軍事、非暴力の「戦争」を新しい戦争ニ型としよう。

 このニ型を推進できる資産を持つ国の一つに日本があるだろう。一次大戦以降の「戦争非法化」を継承し、したがって覇権国を卒業し、共産党自民党日本国憲法体制に参入した非暴力の政治システムとしての五十五年体制の形成など、非覇権、非軍事、非暴力の戦後を歩んできた、さらに核戦争に関わる軍事的な最初の被爆国である日本は上記の国際的動きを行う事が義務であり「国益」でもある。非覇権国とともに行動したり、覇権国を分断したりして、覇権国を操作するのも非覇権国の責任であろう。一型に連なる軍備拡大、核の共有などは、これまで述べてきた異なる出発点からすれば沙汰の限りといえよう。試論であるが多くの人と考え、行動する時の材料になれば幸いである。、

 

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