雨宮昭一の個人研究室

政治学と歴史学と地域の研究をしている雨宮昭一の備忘録です

煩悶, 少年義勇軍、二三男問題、土地山林所有権、工業化

 12月25日に上智大学で、戦時法研究会がオンライン併用で対面形式で行われた。実に対面方式は2年ぶりであった。最初の報告は西田影一さんの「加藤莞治における「協同」と「農本主義」」である。都会で育ち、青年期に「煩悶」のなかで天皇を神とするかんながらの道に帰依し、青少年の農業教育にたずさわり、1938年から1945年までの8年間で、自らつくった満蒙開拓団青少年義勇軍訓練所において、86,530人の青少年を「満洲」に送り込み戦後追放、その後、農民学校の校長などをした、加藤の経歴、思想、特に農本主義の精緻な実証を行った今後の研究にとって有益な報告であった。

 私は報告では触れていないことを中心にコメント、感想をのべた。一つには、わたしが調書など詳しく読んだ井上日昭、私が若いころヒヤリングをした橘孝三郎、でも感じたことはいずれも徳富蘇峰のいう明治後期からうまれた「煩悶青年」のごとく、若い時の激しい「煩悶」を持っていたこと、加藤も同様である。煩悶のあと農本主義天皇などにたどりつく。非エリートの場合はその影響や「被害」は身近の小規模なところにとどまるが、エリートのそれは運動や権力とむすびつく場合は甚大な影響と「被害」をもたらす。したがって加藤などの研究には社会人文科学のほかに、心理学、病理学が必要となるとおもわれる。

 二つ目は「満蒙移民」への動機となったといわれる訓練した「小作農民の二三男の営農地のないこと」についてである。この「二三男問題」の「解決」については、1つは戦後茨城県ではこの問題解決のために自民党社会党保革一致で、工業化、工場誘致をおこない、県民所得も全国40番台を10位以内などになっている。もう一つは、戦前「満洲」の開拓業務を現地で行い、戦後に茨城県の開拓行政に関わった県職員のヒヤリングで「茨城県に開拓地はいくらでもある」と感じたということを聞いた。つまり農地や山林の地主制度、所有権の修正である。地主の赤城宗徳などが小作階級に戦時中に土地をわけることの主張もふくめてそのうごきはあったのである。加藤は工業化には反対し、地主制度にはふれていない、ことをどう位置ずけるかは興味あるところである。その他に、排日移民法がなければどうなったかも考えてみたいことだとおもわれた。いずれにしても有意味な研究会だった。もう一つの天皇機関説問題にかかわる報告につては項を改めたい。