雨宮昭一の個人研究室

政治学と歴史学と地域の研究をしている雨宮昭一の備忘録です

「個人的性愛」の「現実化」と協同主義

 私が研究員をしている法政大学大原社会問題研究所から『大原社会問題研究所雑誌』748号、2021年2月号、が届いた。「イギリス工業化社会における労働者階級家族と子供たち」を主題とする特集がくまれている。その中の「エンゲルス『起源』の「二つの生産」と労働者階級家族」という原伸子氏の論文に触発された論点を書いてみたい。

 原氏の整理によるとエンゲルスは、直接的な生命の生産と再生産の二つの生産があること。うまり家族における人間自身の生産と資本主義的生産があること。「所有」のあり方から、来るべき社会において、社会の大部分が社会的所有になるとき、財産相続を幹とする家族の経済的根拠が消失し、「個人的性愛」などの「現実化」となる。子供たちの養育や教育は公的な事項となる(前掲書、7,8,9頁)とのべている。

 ここでは特集では直接的には触れられていない「個人的性愛」の「現実化」を考えたい。育児や子育てなど家族の役割の社会化は、エンゲルスの時代とことなり、福祉国家、女性労働の調達、女性の高学歴化などにより、資本主義の必要からの偏在性をもちながら進展してきている。このことはエンゲルスが述べた家族の経済的社会的根拠の喪失を意味するだろう。つまり「来るべき社会」の前に事態が進行しているのである。そしてその家族は主として一夫一婦制である。一夫一婦制の解体、相対化は未婚者の増大、ひきこもり、ひとり親家庭の増大、家族形態の多様化などとして現れている。

 この事態は、当面、ひとり親女性などに困難をもたらせている。その解決は必要であることはいうまでもない。他方で一夫一婦制の相対化は、根拠が少なくなっているのに、それに従う無理から人々を開放している側面がある。その意味では制度から解放された個人の自由の増大という意味があるだろう。資本主義の論理などからのその自由の偏在をいかに普遍的にするかが、問われているとおもわれる。

 その課題を全体主義でも自己責任論の自由主義でもないかたちで解こうとするとどのようなありかたがあるか、の探求が必要とおもう。それを互酬、再分配、市場、その担い手の社会的連帯経済、国家、市場の組み合わせによって解決せざるを得ないとおもわれる。以上に関わるモデルを、7年前の教職の退職以来、著書『協同主義とポスト戦後システム』2018年,本年3月に掲載される予定の「研究ノート」をふくむ2019年、20年2本、の4本の「研究ノート」で考えてきたが、それらをふまえて上記の部分的に進行している「ポスト一夫一婦制」における、つまり「一夫一婦制」の解体、相対化の進行のもたらす課題とその解決を考えてみたい。