雨宮昭一の個人研究室

政治学と歴史学と地域の研究をしている雨宮昭一の備忘録です

「コロナ」への対処と日本の過去・現在・未来ー試論

 この五月末には日本における新型コロナウイルスの爆発的感染は少なくとも第一次は抑えられた。その対処の仕方と結果については、中国、米国、韓国、ヨーロッパ諸国などと比較するといくつか特徴がある。

 大きくは中国のような全体主義的対応とアメリカのような自由主主義的対応があった。中国では中央政府が強制的に、アメリカでは経済活動を長く優先した。しかし両国も、韓国もヨーロッパ諸国も都市封鎖のごとく、刑罰を伴う強制措置は共通であった。日本は強制のない「自粛」であった。

 また情報管理による対処は中国、韓国、などは強く、日本は弱いといってよい。さらにその結果については、アメリカ、ロシア、スエーデンなどヨーロッパ諸国と比較すると韓国と同様に死者率が非常に低い。

 以上のような全体主義的的でも自由主義的でもなく、かつ強制的でもなく、かつ情報管理も弱いままで、死者率は低く第一次感染爆発を抑えた背景を考えたい。

 第一には、日本は言うまでもなく、共産党一党独裁の体制ではない。第二にはアメリカなどと比較すると新自由主義もそれに基ずくグローバル化も不十分であった。それゆえアメリカや韓国とくらべて社会的格差も情報化も進んでいない(「世界の格差と日本の格差」朝日新聞2020年5月29日、朝刊)。アメリカなどと比べれば国民皆保険制度があること、しかしスエーデンほど福祉国家化はすすんでいない。スエーデンの場合は福祉国家の進展はすでに「安楽死」を正面から議論している段階にあり、今回の場合には高齢者の死亡率が高い。つまり体制も新自由主義化もグローバル化もさらには福祉国家化もいずれも”中途半端であるゆえに上記の結果になったことになる。

 積極的に対応した諸国と決定的に違うのは、刑罰のつく強制をしなかったことである。これは制度の問題と強制性がなくても実践する国民のありかた双方に関わるが、端的に言えば、戦争をしない国、あるいは戦争ができない国、であるからである。いうまでもなく、国家緊急権により全国民と国民の生活全領域を刑罰を背景に強制できるのは戦争であり、戦争が合法化されている国に置いてのみそれは可能である。そしてそのような制度にない国家と社会に日本がある事をこの度のコロナ対応はしめしたのである。

 このことは憲法九条体制を含む戦後体制が、ポスト戦後体制に移行しつつある現在にも継承されていることを意味する。この日本戦後史の国際的位置から日本近現代史を見る視角と立ち位置を考えたい。その国際的ありかたとは、軍事力の行使を前提として覇権行為を行う覇権国家から、軍事力を行使しないという意味での非覇権国家への移行と定着である。現在までの日本近現代史の研究の視角は覇権国家日本の展開とその「失敗」と再び日本がそうならないための「教訓」がもとめられてきている。

 最近いただいた本に、原田敬一『日清戦争論』(本の泉社、2020年))、少し前だが坂野潤治『帝国と立憲』(筑摩書房、2017年)がある。前書は最初の対外戦争としての日清戦争が日本近現代史の起点でありそこでの政治家、国民、知識人などのありかたが後の日中戦争第二次世界大戦への参加に連続することをのべる。それは現在も影響力をもつ司馬遼太郎史観への「反論」だとする。

 この点については私も明治維新から日清、日露戦争とその後の戦争では戦争指導の主体も形態も転換するがそれは近代日本の「ノーマル」な生理として正面から直視する必要があるが、それはその転換を病理、逸脱として処理し、その背後には転換以前の健康な、健全なナショナリズム“を自明の価値として歴史を語る司馬氏の“史観”とは「大きく異なる」と述べたことがある(雨宮『近代日本の戦争指導』吉川弘文館、1997年、304頁)。

 上記坂野さんの作品は、1874年の台湾出兵から始まる「日中戦争への道」を「日中戦争はなぜ防げなかったのか」という視角から近代日本における中国への膨張を意味する「帝国」とそれに歯止めをかけようととする「立憲」との長期にわたるやりとりと、1937年7月の後者の「最終的敗北」のあとに1941年12月があること。詳細な分析から「デモクラシイ勢力が政権についていれば、戦争を止めることができる」ことを指摘する。そして現在の尖閣諸島をめぐる日中の局地戦争で「立憲デモクラシイ」の主張者が同調することを指摘する。「二度と日中戦争を起こしてはならない」と結ぶ。

 原田さんは特に国民諸階層の生活と意識から、坂野さんは帝国と立憲から明治初期からの動向が日中戦争に連続していくことを具体的に示し、再びそうならないための教訓を日本の動きの中から抽出する。その意味では私も同様である。

 しかし前述のコロナ対応の特徴に現れた日本の戦後史の特徴から日本戦前の歴史への意味ずけを変えるあるいは新しい視角を加えなくていいだろうか。つまり戦後日本は「憲法9条をまもりながら、かつ属国にならない」(雨宮下記の「研究ノート」2020年43頁)ことを課題として、少なくとも戦争をしない、できないという意味で、覇権国家でない国家と社会をつくってきた。それは決して不可逆ではないが不可逆にするためにも新しい視角が必要と思われる。

 すなわち覇権国家の交代という歴史的現実である。戦前日本はまぎれもなく覇権国家の一つであり、それが帝国として植民地獲得も含む加害行為を行い、植民地、従属国、他の覇権国家との戦争に至った。戦後はアメリカは引き続き、最近はそれに新しく中国が新興の覇権国家として現れている。日本はそれら覇権国家から影響を受ける国になっているのである。

 日本近現代史、特に1945年までの研究と叙述は、優れていればいるほど単に日本の、覇権国家への過程、「成功」「失敗」、加害、、国際的責任、を明らかにするのみならず、それを超えて、現在のアメリカや中国などの覇権国家への過程、「成功」「失敗」「加害」、国際的責任などを明らかにすることの参考材料に満ち満ちており、その提供に客観的に貢献している。ここではそれを自覚的におこなうべきことを提起したいのである。さらに日本にでは戦前日本の非覇権国家の契機、他の非覇権国家の、非覇権国家への過程、「成功」「失敗」、被害、国際的責任などを学ぶ必要がある。

 以上の視点は「コロナ」をめぐるアメリカや中国、日本などのこの間の動向から得たものだが、もう一つはこれまでの私の協同主義研究からの継続もある。具体的には戦前の協同主義の主唱者である三木清の「東亜協同体」論の組み換えである。三木は帝国主義の克服と自由主義、資本主義の問題の社会主義でも全体主義でもない方法による解決を実現しようとする協同主義の広域圏の形成をめざした。その現実化のためには「主導国」が必要であり、その日本は自らを協同主義に変えなければならないとした(『三木清全集』)。この論点を、主導国が変化している戦後―現在でも有効だとして現在では中国、などが自らを変えることを提起した(雨宮「研究ノート」『地域総合研究』12号、2019年3月、59頁)。そのような国際的な地域秩序や国際秩序の形成にも覇権国の責任は重い。戦争についても覇権国が物理的に影響力を有しているのだから、戦争が起きたことに対する責任は主として覇権国にあるのは1945年の前も後もおなじである。

 非覇権国もまた覇権国を操作したり「善導」して戦争に至らない状態を、作る責任がある。そして覇権国、非覇権国のそれらの動きによって、覇権、非覇権関係をなくす地域秩序、世界秩序が形成される展望を持つことがあり得る。ブログなどでのべてきたようにこの間のコロナ状況は市場経済のみによるグローバル化に起因し、非市場的領域としての社会や政府の再生、および「友」と「敵」の向こう側にある人間の共生と共存が求められそしてそれが社会を救い管理している。それは全体主義でも自由主義でない方法を要請すると思われる。そしてその過程は同時に職住の近接とかベイシックインカムなどの新しいシステムの条件も形成している(雨宮ブログ2020年4月6日、7日など)いると思われる。そしてそれらが覇権、非覇権関係をなくす内外にわたるコンテンツと方法と思われる(雨宮「研究ノート」「協同主義とポスト戦後システム再論」「協同主義研究の様々な課題と様々な立ち位置」『地域総合研究』地域総合研究2020年月)。