雨宮昭一の個人研究室

政治学と歴史学と地域の研究をしている雨宮昭一の備忘録です

坂野潤治さんを悼む

 坪内稔典さんに「枯野では捕鯨の真似をしろよ、なあ」という句がある。これは句仲間の追悼の句としてつくられたものである。私は弟子ではないが、長い間親しくつきあっていただいた、畏敬すべき人としての坂野潤治さんに何かを書きたいと思った。

 俳句では「枯野でもやるときはやるですね、坂野さん」と詠んでしまった。

 坂野さんは日本近現代史研究の巨星の一人であり、膨大な著作も含めて多様な側面を有しているのでその全体を描くのは多数のお弟子さん達によって行われると思うので、ここでは私に関わることに限定して書くことにする。

 今から五十数年前に大学院の私の指導教官であった東大社研の林茂先生の研究室で紹介されたのが最初の出会いであった。私は林先生との関係で坂野さんと伊藤隆さんには少し特別の親しさを持っている。以後、先生の研究室、憲政資料室、研究会の後の居酒屋、共通の知人の記念イベント、仕事の打ち合わせなど無数の場でお話をする機会をいただいたが、その中で印象に残ることがある。

 三十数年前に早大での政治学会でのあるセクションで坂野さんの持論の1930年代の日本のデモクラシイの報告に対して私が戦時期の位置ずけが明確でないことを質問した。それに対して坂野さんは質問には触れずに「答えは簡単だ。来年、君がここに座ればいいんだ」と言い放った。

 また、学会などの後に見知らぬ土地で食事やお酒を飲む場所を、私がその土地の日常的な料理を出すところをみつけると「雨宮は嗅覚がいい。こういうところでも研究でも」といい、嗅覚以外は駄目というニュアンアスは否定しがたいが、私の研究では統帥権、日糖事件、外交調査会、惜春会、町内会、総力戦体制、五十年代社会論などを例にあげられた。

 こうしたところに現れる身体的感性と「社会は解釈するだけでなく、変革するものである」という感性は共通して有していると思う。それは坂野さんが60年の安保闘争全学連の国会突入の時のリーダーであったこと、私も3,4年後に同系統のブントの活動家として二度ほど検挙されたことがあった、などにもあらわれていると思われる。

 だから坂野さんの全ての著作では「社会をどうすればよくできるか」との視点が貫いており、また2011年の福島原発事故の後片付けの時「若い人が放射能を浴びてはだめだ。老人が現場で働こう」との「老人決死隊」の呼びかけに坂野さんが応じ、それを坂野さんから聞いた私も即座に「参加したい」といったとおもわれる。

 しかし共通したものを前提にしながら、研究上の立ち位置はかなり異なっている。坂野さんは都市アッパーミドルの自由主義で私は旧中間層の動きも重視する民主主義であり、よく話されたが坂野さんの父上は裁判官で戦時中に町内会などにあった旧中間層に圧迫されたことを、反権力の源泉の一つにされている。私はコミュニティに責任を持つあり方に視点をおいていた。これらが戦時期の評価にの違いとなって現れている。4年ほど前に、日本の近現代に関する坂野さんと私との対談形式の新書を出そうといわれた。その直後に安倍晋三政権は1940年代の翼賛体制ではなく、1920年代の自由主義体制―天皇自由主義体制を客観的にはモデルにしているとの論文、著書を、私が出して以後その企画は展開しなかった。

 学問的にはまさに巨星落つ、であるが私にとっては無数の機会にわかっていることはあたりまえに前提にして省略し、お互いにまだわからないことを、それ故にわくわくするような、、フットワークのかるい楽しい時間が永遠に失われたことが痛切にかんじられる。最後にやはりお話ししたい。

 枯野でもやるときはやるですね、坂野さん

 合掌