雨宮昭一の個人研究室

政治学と歴史学と地域の研究をしている雨宮昭一の備忘録です

あいちトリエンナーレ2019

 1昨日9日、あいちトリエンナーレに出向いた。再開された「表現の不自由展・その後」の抽選には落ちてしまったが、それ以外の作品は(豊田市の場所のものは時間的に行くことができず見れなったが)見ることができた。

 実に多様でアクチュアルなテーマ、多様な表現方法、アーティスト以外の人々の参加も含めた手法などを見ることができた。戦争、難民、ジェンダー、心身の障害などなどアクチュアルな問題を避けずにしかも、カール・シュミットのいう友敵関係としての政治の文脈とは異なるありかたを表現している。つまり政治とも経済とも異なるかたちで今と次を直感的にリアルに見せてくれる。

 その内外のアーティストたちはほとんど例外なく自分たちの展示場所と異なる「不自由展」の中止と再開に反応、言及している。声明などで表現の自由、に関わり再開しなければ以後日本で行われるイベントに参加しない、とか作品を変化させたり、である。

 会場には「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会中間報告」、同「抜粋版」、同「データ・図解表」も置いてあり相当に詳細に企画、中止、再開の内容が記されている。

 ここで見た作品でもいえることではあるがアートは、自明と思っていることを異なる、思いがけない仕方で相対化し、自覚しないが行き詰っていることを可視化するなど人類にとって不可欠なものである。それゆえに少数、多数などと相対的に自立した扱いが不可欠である。中止したままとか文化庁補助金交付打ち切りが原因で内外のアートに接する機会が失われるとすれば大変なことであり、その点で再開はこの「国」と人々と社会の今と未来を救ったことになろう。

 私は最近の著書の中で原爆の被爆者の動きの、被害者加害者文脈をこえた側面を、「平和の少女像」でも見ることが可能、と述べたことがある。その像を「反日」「反韓」の政治的動員の側面からでない視点と文脈から多くの人がみる権利がある。

 いろいろと不十分な点があるとはいえ、以上のような問題が大騒ぎになり、広く深く議論され、再開されたことはほぼベストな展開だと思った次第である。