雨宮昭一の個人研究室

政治学と歴史学と地域の研究をしている雨宮昭一の備忘録です

非利潤と非政府と協同主義

 7月20日に戦時法研究会があり大中有信「20世紀の例外状態と総力戦体制における日独法学ー日本の民法学・財産法学のための覚書」、および岩井淳「京都学派と戦時体制」の充実した2報告があった。いずれも対象の時期のアクターについての詳しい説明がなされ多くのことをご教示いただいた。発言するつもりはなかったが討論の最後の方で促されて次のようなコメントをした。

 戦時の学者、研究者、テクノクラート、などを研究する意味は何か。過去のもので、結果も分かったものとして「再現」したり「評価」したり「評論」したりして済むのか、を考えたい。そうすると1920年代から40年代という時代は、1つの転換期であること。大きく言えば近代の転換期で普通の人々の生活の困難が資本も国家もそしてそれらの関係としての国際システムでは解決できない時期になったこと。

 その解決をめぐって当時の学者、研究者、テクノクラートたちが必死に考えたものが社会主義、ナチズム、ファシズムニューディールなどなどでありその中での政策、学説、制度論、組織論などなどである。これらはすでに結果がでて終わったものとして扱われることが多い。終わったものなのか。

 現在も普通の人々の生活の困難を資本も国家も国際システムも解決できない事態にある。戦前戦時の事態の螺旋的であるが再現出である。つまり課題は継続中である。そして人間の知はそれほど無限にあるものではない。それゆえぎりぎりまで考え抜いたそれぞれの内容をリスペクトをもって明らかにする必要がある。それは同時に同じ「失敗」を繰り返さないためでもある。ある國、地域では現在カールシュミットがフリーハンドでとりあげられていたりするからである。

 当時は既存の資本や国家が不能であったから、いずれの人々もその意味で非資本、非国家から始めたが結果は上記のように多様である。私はこれまでの私の本やブログでのように、非営利ーNP,非政府ーNG、協同主義的国際システム、を内容とする協同主義を少なくとも近代全体、さらに戦前戦時の知的営為から考えてきている。それはレッセフェール自由主義でも共産主義ファシズム全体主義でもない問題の解決の仕方を提起しているからである。

 上記に関連して最近、ソウル市やスペインなどの社会的連帯経済の研究会や書籍で勉強をはじめたくさんのことを学んでいるが、NG、NPだけでなくGとPも同時にデザインする必要が近代であるゆえに必要であることを痛感している(なお協同主義については雨宮『協同主義とポスト戦後システム』2018年、有志舎、およびブログを参照していただくと幸いである)。いずれにしても戦前戦時、とくに戦時の研究ははじまったばかりである。