雨宮昭一の個人研究室

政治学と歴史学と地域の研究をしている雨宮昭一の備忘録です

2020年6月の俳句

 都市政治と国際政治に関する政治史と歴史学の方法と立ち位置に関わる二つのエッセイを書かなければと書きつつあるがなかなか進まない。

はなれあひゆきかひあらたコロナ夏

ステイホーム東京の空深く透き

公園サクス尾崎卒業たどたどし

出来心と酢醬油に噎せところてん

天網は疎にして漏らす心太

いい加減に生きている心太

そろそろと心いれかへ心太

どくだみの花五千ほど深大寺

黒南風のなかからによきと鰹船

坂きゅうに少し毒あるジギタリス

以上。

 

「思想家」と「俳人」

 一昨日5月13日は少々印象的な日だった。

 一つは、若い研究者から、私の『協同主義とポスト戦後システム』などの著書、最近書いた研究ノート「協同主義と研究の様々な課題と様々な立ち位置-ポスト戦後体制期と内外の当事者性、メタ、既成制度」、「「協同主義とポスト戦後システム」再論ー社会的連帯経済、再編福祉国家論、MMT」(『地域総合研究』2020年3月),およびブログを読まれた中国人の現代思想の研究者が、私を日本の現代の思想家として私にインタビューを求めていることをつたえられたことである。

 もう一つは、「NHK俳句」の選者などをされている小澤實氏の結社「澤」に関わりができ、5月号の結社誌『澤』で、私の句「前の世に見しごとき街春の雪」が特選、二つの句「不機嫌な鴉コンビニ春の雪」「エスの字に跳ぶごんずいのふじびたい」が選として掲載された。つまり俳句業界で俳人として一応扱われたのかもしれない。

 「思想家」も「俳人」も自分がそうであるとは思っていなかったこと、しかも「コロナ」で雑誌が遅れたこともあって、二つのことが同じ日にかさなったことは、ずいぶん印象的なことであった。

 

 

2020年5月の俳句

 退屈なので俳句をつくってしまったので5月にならないがひとまず。追加はあるかもしれない。 

 

噴水のあやつる時や風ひかる

艶けきは深緑こぶし花の後

 

要らないが急ぐことばかり風光る

「コロナ」あろうとなかろうと糞ころがし

後頭に夏ある真蛸転倒す

柿若葉のまっただなかをメガロサウルス

中指の根元の胼胝(たこ)のきわに初夏

以上。

 

 

2020年4月の俳句

雪に春ごみのうえからあらせいとう

かみあわぬ犬と入れ歯と朧月

はずれにはかならず桜甲斐の村

疎らとはかくもはなやか藪こぶし

若柴の一葉一葉の陽のひかり

聞かなかったことにしてくれ亀が鳴く

何をしに来たか忘れて亀が鳴く

物理学ラボの机の亀が鳴く

エラーなしに進化はないと亀が鳴く

ヒヤシンスこの人なんとなくミドル

羽根布団干したら三倍サルバドール

ふわふわのおとこと青空柳の芽

沈丁花つかみどころのないおとこ

さんざしの花の向こうの牛乳瓶

公園のチュウリップはでかすぎる

落花落花こと終わることの明るさ

急ぐが要らないものばかり春深し

現代過去未来もろともに咲く桜

以上

 

「非常事態体制」が促進することについて

 コロナウイルス対応は市場経済のみのその意味で“過剰な”グローバル化への市場経済以外の要素への“後戻り”の側面もあるが、歴史の中の、全面にわたる「非常事態体制」と共通するこれまでの課題の強制的、ある意味では暴力的促進を行う側面もあろう。

 送られてきた獨協大学地域総合研究所『地域総合研究』13号、2020年3月,で倉橋透所長は、「地域総合研究所と新機軸」と題する巻頭言で、2007年の創設された研究所でポストベッドタウン研究から倉橋所長時には「人口減少時代の大都市近郊地域における「地域モデル」の構築」に展開していること。それは人口減少、高齢化、インフラの再構成、、IOTの集約、保育、医療、介護の提供などの課題としてあらわれていることを指摘されている。さらに注目されるのは次の指摘である。

 新型コロナ感染症対策として、テレワークが推奨され、実際急速に進行している。この傾向が収束後も続けば都心への距離は意味を減じる。一方で、テレワークを支えるインフラ(つうしんいんふら、ワークスペースの確保、子供の保育のシステムなど)の整備が必要になる。このような今日的課題の発見、展望が重要との指摘である。

 2007年当時、職住の時間的空間的社会的な分離を特徴とするベッドタウンシステムが揺らいでいる。そこで次のシステムを、内外循環すなわちグローバル、ナショナル、ローカル循環と結びついた職住の再統合、再接合のシステムとしてとのポストベッドタウンシステムを考えた(雨宮『戦後の越え方』2013年,日本経済評論社、177‐183頁)。その時はソーホーなどにも触れているが抽象的であった。

 それが十三年後の今、倉橋所長が指摘するように新型コロナ感染症対策としてのテレワークの現実化、筆者の子どもや卒業生たちが知らせてくれる「在宅ワーク」の全面化として、情報化を自明に職住の再接合が行われていることにおどろく。、つまり「ポストベッドタウンシステム」の最も重要な契機の現実的進行である。このたびの「非常事態体制」がこのように一つの解を、すなわち課題の解決のリアルで具体的な形態の形成を促すのである。もちろんそれが自覚的に認識されていないとその中にある方向性は見えないだろう。

 

 

 

対パンデミック、オーバーシュート「非常事態体制」を

 強風なのに桜の花がだんじて散らないのに驚いたりしているが、この数日の新型コロナウイルス感染者の急増にも驚いている。しかも検査が不十分なのでさらに感染者は多いはずである。 

 それゆえに日本全体としては感染爆発=オーバーシュートを遅らせるためにすぐに「非常事態体制」をつくるべきである。そのあと悪化しないならばレベルを下げていけばよい。すでに事態はは細菌学と経済学の段階から政治学、さらには行政学の段階に入っている。

 いうまでもなく現在起きていることは、グローバル化の不均等展開の結果である。つまり市場経済のみによるグローバル化が突出しており、それが生み出す人々の健康、福祉、医療、もふくむ非営利領域は追い付いていない。その追いつく課程をへてこの段階のグローバル化は仕上がる。その過程は排除あるいは軽視、無視されてきた国家や非営利領域の再登場とそれらによる「非常事態体制」という“後戻り”を通して前に進む。

 政治のありかたもカール・シュミットの「非常事態における決断」としては共通しつつも「やつは敵だ。敵を殺せ」の意味をもつ人間の友敵関係としての政治とは異なる「友」と「敵」の向こうの人間の共生と共存のための決断である。パンデミックやオーバーシュートを遅らせる密接と移動の禁止強制とそれを保障する諸領域のコーディネートをおこなう政治は人間の友敵関係ではなく共生の条件つくりである。

 そしてその方法も全体主義的でも自由主義的でもないものが要請されるし可能である。それは民主主義の主体、制度、手続きを十全に保持しての立憲的独裁である(内外の非営利領域に関わる協同主義や立憲的独裁に関しては『地域総合研究』13号、2020年3月に載せた「研究ノート」および最近のブログを参照)。