雨宮昭一の個人研究室

政治学と歴史学と地域の研究をしている雨宮昭一の備忘録です

送られてきた文献

 4月になったが3月17日の報告と討論の余波が録音の電子資料で読んでいることもあってか、なかなか薄れない。この間、私の研究ノート「小金井市近現代史から市の現状と課題を考える」の抜き刷り、とそれが掲載されている『地域総合研究』第12号、2019年3月、およびここ何年か、私も参加した大原社研のメンバーたちとの戦後の日本社会党、および総評の書記局の22名の人たちのヒヤリングを集めた同研究所、五十嵐仁、木下真志編『日本社会党・総評の軌跡と内実ーオーラル・ヒストリー』旬報社、2019年3月、が送られてきた。

 前者をすでに読んだ何人かの若い人からは,ここでの「下から、基層、地域から」との視点から「上から」との対抗を要求されている。しかし私は上下の対抗ではなく、「下の」動きをふまえた「上からの動き」のオルタナティブも出すべき、といっているつもりである。またこの文献が「わかりやすい」と私の参加しているある都市の審議会にコピーして配布されたのは少しうれしかった。後者はあらためて読み始めたがヒヤリングの時を思い出しつつ、書記局の人たちであるがゆえに実質的な情報が豊かに表出されていて残る仕事だと思う。

第一回協同主義研究会

 昨日3月17日に協同主義研究会の第一回が小金井市のマロン会館で行われた。私が「協同主義研究会の様々な課題と様々な立ち位置ーポスト戦後体制の模索期(1989-2019年)と内外の当事者性、、メタへの責任、既成制度からの自立」について報告した。

 30名程の会員のうち18名の方が、九州、秋田、新潟などからも、そしていずれもまだ大小の「功成り名遂げ」と思って無自覚にそれに思考が拘束されない意味でも現実的にも若い人が多い集まりであった。報告1時間、討論2時間、できわめて本質的で深く先端的な議論が行われ、そのあとの懇親会でもそのまま議論が引き継がれた(報告の内容と議論は起こして印刷される予定)。

 協同主義を、内外、諸領域、諸時代に体系的にかかわるものとして提起したこともあって、多面的な論点があがった。アトランダムに、闇経済と自主管理、社会の基層と政治、国家の間の各レベルにおけるヘゲモニー空間、オルタナティブ、中国における協同主義の契機、解釈改憲の程度の質的意味、70年代の地域計画の協同主義化、社会国民主義派の戦前、戦後の都市計画と新旧住民、協同主義の理念と課題と担い手ー戦時と戦後とポスト戦後、秋田における協同主義と農協の歴史的位置、などなど。当然、報告者の四潮流論にも、ファシズムやマフィアの評価にも激しい指摘があった。その評価の基準が抽象的なデモクラシーではなく、その現場で生きていくためのオルタナティブを基準にすべき、と報告者は述べた。とにかく知的にも実に楽しい時間だった。また知らない人たちが知り合いあたらしいネットワークのプラットホームにこの会がなっているのもいいなと思った。次回が楽しみである。

 

 

2019年3月の俳句

 この2、3か月はゆるくではあるが協同主義研究会の立ち上げと、私は研究会では報告しないはずが、この3月の第一回研究会で報告する羽目におちいり、その準備のために余裕はないはずであるが、俳句はできてしまった。この間の春の雨、さらに自宅の二階からは自宅の小さい庭のほかに近所の家々の庭の植物や蝶や鳥がよく見え、それらを見ているうちにできたものばかりである。

 

間氷期のとあるベランダ紋黄蝶

目白数多全花細動藪椿

砂庭に蕗の薹のみ二つ三つ

ハーバードヤードに連翹黄一叢

雨粒の全部がちがう春の雨

以上

 

 

2019年1月の俳句

晦日や本屋に列の長く伸び

紅葉落ち八つ手の光伸びやかに

子供とはいつも有事や初御空

山迫り星を貫くどんどの火

我らはや二代の遺物初茜

一時は彼の地の命初御空

平成夏代々木公園デング熱

折れる枝折れるわけあり野分だつ

恐竜を見たかと問ふ孫日脚伸ぶ

婚活も豚カツもよし福寿草

惚けるたあ惚れたってこと返り花

2019年年賀状

 

 -明けましておめでとうございます。昨年中は大変お世話になりました。本年も宜しくお願い致します。昨年はいろいろな意味で少し画期的な年でした。『協同主義とポスト戦後システム』の出版、小金井市近現代史の地元でのゼミ、それをもとに『市民運動新聞』での9回の連載(ブログに未定稿ですが載せました)、などを行いました。            
 それと内容的には関係しますが、1995年以来気にしていた本土各地域の当事者性という沖縄基地問題の打開の方法に近い意見書が地元市議会で2018年12月6日に全国で初めて議決されました。
 この当事者性はそれがなくても済んだ戦後体制から(雨宮『戦後の越え方』2013年227頁)外交、内政諸領域で当事者性をもたざるをえない時代への応答の一つでしょう。冷戦体制の終わりが当事者性を持たざるを得ないポスト戦後体制の始まりでした。それが1989年で平成元年でした。それから30年がたちました。たとえば最近アーミテージやジョセフナイ氏が日本国憲法改憲は不要で実質的な日米の軍事関係の提携を深化すべき、といっています。つまり戦後体制の一環である憲法体制、特に第9条は米国の属国化の継続ともなります。9条を維持してかつ属国にならない在り方はいかに可能か、をそらさないで考える当事者性が客観的に求められていますね。小金井市議会の決議はその一つの在り方だと思います。                          今は回復しておりますが、体調を崩し、配食、介護、ベッドなどをいれてきちんと開いて依存しきちんと自立できる新しい生活システムに子供たち、その配偶者たち、各職員、趣味の集まりのみなさんたちのおかげで移行できました。皆様の健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。
2019年 元旦

 

 

小金井市の近現代史から市の現状と課題を考える

①  互助と連帯と

 小金井市は1958年に生まれ、今年は60周年にあたる。この時に改めて市の現状と課題を小金井市域の社会、政治、経済、文化の歴史の中で考えることは意味があると考えられる。
 本稿では第一に、この地域の住民は課題を解決するためにいかに互助や連帯をし、社会を形成してきたか。第二に農村地域-農村・工業地域-工業・ベッドタウン都市-ベッドタウンと短い間に変化したこの地域の構造の今後の方向を歴史的にどう構成するか、第三に政策決定の困難さをあどう考えるか、の三点を考えたい。
 まず第一についてだが、課題とは解決すべき困難として現れる。現在における市の課題の背景には低成長経済、財政難、高齢化、少子化、格差、孤独化など日本全体の困難がある。小金井市域の住民は例えば近現代において「地元民」-「墓持ち-墓なし」「旧地主-本家・分家」「新地主」、「よそ者」-「来たり者、来去り者」等々がどう動いたか。
 違う角度からは長らく社会の主人公であった日本人、男性、、健常者、正社員、、壮年、,およびそれら以外の外国人、女性、「障害者」、「非正規社員」、高齢者や若者はそれぞれどう動いてきて、関係はどう変化してきたか。
 これまではそれぞれの住民の対立と分断として語られてきたがここではそれぞれの住民による生活の困難の解決の仕方としての互助や連帯を“思い出し”持ち寄り、結びつけることによって現在の課題の解き様を考えたい(『市民運動新聞』(以下省略)2018年3月20日号)。



② 近世から近代へ

 小金井市域の近世はどの様なものであったろうか。それは天領であり、上小金井村、下小金井村、貫井村、下小金井新田、貫井新田、梶野新田、関野新田の七つの村である(『小金井市史』史料編、近代、2014年参照)。それらは明治維新以後作り出された「行政村」との比較で「自然村」と呼ばれ、農業中心で、人々が歩いて通行する範囲であった。
 この地域の近世における天領、「自然村」、農業中心、という特徴は、現在までの生活と課題にも関わる。天領は、武士が日常的に身近にいて庶民の経済や精神生活を不断に規制していた藩領とは異なり、統制がゆるくそれゆえ庶民は相対的に自由で自立性が強い(雨宮『協同主義とポスト戦後システム』第二章参照)。又「自然村」ということは人が歩く範囲というある普遍性を持ち、近代ではほぼ小学校区と重なる。この範囲は現在の子育て、医療、福祉などの生活圏に対応する(吉田伸之『地域史の方法と実践』2015年、校倉書房)。
 農業中心は一九二〇年代まで続くがそこでの住民が「地元民」のもとである。そこでは自ら各生産者組合、金融組合などを作って生産を行っている。さらに青年会、女子青年会、がつくられ自ら学んだり遊んだりし、また地域に公会堂(前原青年会)、劇場(上山谷青年会)、プール(貫井青年会)などをつくるためのネットワーク作りや募金、勤労奉仕などを行い実現している。地域に必要なソフトとハードを自ら作っていくのである(2018年4月20日号)。

③ 小金井村から小金井町へ

 小金井市域のもとである小金井村が明治21年1888年)にできたときは養蚕を中心とする農業中心の地域で人口は1600余人であった。
 1925年武蔵小金井駅開設などで交通の利便が良くなり「商家並びに工業亦興り」(町制施行式辞、1937年2月15日、『小金井市史史料編』近代、現代より、以下同じ)、人口は9200余人となる。また東京高等蚕糸学校(後の東京農工大学)、鴨下製糸所、昭和工業、小金井製作所、帝国ミシン(蛇の目ミシン)、横川電機、の各工場ができた。さらに商工業者、官公吏、会社員、自由業に従事するものが「七割五分ヲ占メル」(村会議決1937年1月30日)に至る。そこで特に「知識階級人士ノ居ヲ定ルモノ多ク」(式辞)なる。一方消防組、軍人分会、愛国婦人会、青年団、が活動し、信用購買販売利用組合も業績をあげているという。
 急増した新住民と旧住民との親交団体もつくられる。1934年現在で会員216名うち「地元」45名である(昭午会会則、名簿、1934年2月)。
 1930年代の小金井市域は第二次、第三次産業化、つまり都市化が激しく進む。その産業の人口も75%を超え、それらが住宅をつくる。一方旧住民は従来の方法で生産、消費、社会生活を営んでいる。そして新旧住民の交流もなされている
 このようなこの時期の市域の状態に戦争がソフト、ハードにわたって新しい条件を与えていく(2018年5月二〇日号)。

④ 戦争と地域の変化

 1937年2月に小金井町ができて5か月後の7月に、日中戦争がはじまる。この戦時体制の前後の時期に、さらに工場が建設され、37年には首都圏防衛のための陸軍小金井大緑地(90ヘクタール)、38年には陸軍技術研究所(175ヘクタール)、などがつくられる(『写真で見る私たちの町小金井』1983年、82頁)。それらに従い人口も町になったとき約9千人だったのが44年には1万6千人になる。つまり戦時期のハードの領域で都市の条件がつくられていく。
 さらにソフトの領域では生活必需品の供出と配給、町内会・部落会の創設、精神動員運動、3つの婦人団体の統合、都市の女子青年団の農村共同炊事などへの動員などが行われた。以上を通して旧住民と新住民、都市地域と農村地域、世代間、多様な階層間のあいだのコミュニケーションが強制されたことにより、それぞれの間に社会的な混住が進んだ。
 1945年8月の敗戦から始まる小金井町の戦後は、戦時中につくられたハード、ソフトにわたる工業化、都市化、混住化のなかの軍事色を抜いて地域を作っていく。ハードでは各工場の軍需産業から民需への転換、膨大な大緑地や陸軍研究所の教育施設や公園への転換、などである。これらにより公園の多い学園都市の条件ができる。
 一方行政は戦時からの連続もあるが失業救済や国民健康保険条例をつくり町民生活の支援をする。住民自らは戦災やインフレへの対応として自ら生協をつくり、青年会や婦人会が地域の福祉に携わり、同時に公民館企画実行委員会制度などをつくり公民館を中心とする地域の文化活動も行っている。
 こうして敗戦の混乱の中で新・旧住民、諸階層の人々は困難な自らの生活を互助と多様なつながりによって展開している。それに加え個々人は買い出し、自家菜園による自給自足、闇経済への対応などを行っている(『小金井の女性たち時代をつなぐ』2003年,112頁など)。これらの経験は戦争でなくてもこれから同様の困難に遭う場合の大事な財産となろう(2018年7月二〇日号)。

 

 

 


⑤ ベッドタウン

 戦時、戦後混乱期を経てこの地域は住宅と工場の町として50年代から始まる経済の高度成長を迎える。しかもその前に多摩を含むこの地域はある選択をしている。1956年の首都圏整備法ではこの地域は工場と住宅が、つまり人口増加を抑え働く場所と住む場所が近接した農地も含む緑の多いグリーンベルト地帯として構想されていて、職住が分離するベッドタウンとは異なるものであった。この地域でも小金井町議会決議など(「首都圏整備法による近郊地帯指定除外決議」1956年11月8日、『小金井市史資料編現代』346頁)このグリーンベルト構想に反対の動きが広範にあり東小金井駅設置もその一環であった。
 かくして「住宅地として発展が期待され」(同前)るベッドタウンとしての方向で1958年10月人口約4万人の小金井市が誕生する。こうして工場、農地など働く場は縮小され住宅地化と市街化が一層進む。このなかで生ずる地域の生活の仕方に関わる新生活運動に婦人会、自治会、子供会、などが取り組み、女性の権利や平和のための婦人有権者同盟支部ができ、母親大会、原水爆禁止運動が取り組まれた。障害者福祉、保育所学童保育、などの充実への運動、そして文化や人とのつながりをつくるために公民館を中心としてたくさんのサークルができていく。
 しかしベッドタウンを選択した上での、急速な高度成長は無秩序な開発、必要とする公共施設の未整備、環境破壊などをもたらしこれまでの方法では済まない事態をもたらす(2018年8月二〇日号)。

⑥ ベッドタウンと高度成長と「革新市政」

 急速な高度成長は急速な人口移動を伴い特にベッドタウンを選択した地域ではソフト、ハードにわたる生活インフラの必要とその不在の間に巨大なギャップをもたらした。小金井市も同様であった。60年代から70年代にかけては、それゆえにこの市でも、汲み取り・ごみ収集、保育、高齢者医療費無料化も含む福祉、人口増に伴う高校増設、図書館増設、消費者保護、在日朝鮮人国民健康保険適用の要望など切実で緊急なかつ全面にわたる運動が、激しく噴出した。
 これにこれまでとは異なる対応として小金井市にも1971年に「革新市政」が誕生する。市長はこれらの困難を「市民生活の最低保障」を実現するために「市民参加」と汲み取り・ごみ処理、保育、などのまさしく緊急で切実な課題に総力を挙げるために「市直営」などの方法をとった。これらの方法は当時の段階には適合的であり、市議会でも合意があった。これらを通して上記の課題と要求は一定程度実現する。つまり上記のギャップを埋めたのである。それは同時にこれまでの社会における主体であった日本人、男性、健常者、正社員、壮年、以外の、外国人、女性、「障害者」、高齢者なども社会の主体となっていく過程でもあった。
 しかし「革新市政」が生まれて2年後の1973年には「石油ショック」をきっかけとして経済の低成長が始まる。それゆえに財政難が始まり、再開発を望む市民からは投資的経費の増加を可能にする行財政改革の要求が起き、それが1975年の「保守市政」の誕生となった。そしてこの70年代前期の過程も含む多様な市民、政治家などの努力によって課題を解決してきた現代はこれまでの新旧住民の利害を背景とする「保守」「革新」の対立の次元を越えた段階に入ったと思われる(2018年9月二〇日号)。

⑦ ポストベッドタウン

 これまで見てきた小金井地域の近現代史から市の現状と課題を三回にわたって考えよう。第一はこの地域の構造の今後の方向を歴史的にどう構成するか。第二は地域の人々の生活の困難の解決の仕方、第三は政策決定の困難をどうするか、である。
 第一についてはこの地域は短い間に農村地域→農村・工業地域→工業・住宅地域→住宅地域と変化してきた。この地域を「郊外」とする議論もあり、また松下圭一はこの市がベッドタウンとしていくことを前提として1986年に講演をしている(『小金井市史 資料編現代』692頁)。現在もベッドタウンを前提とする議論が多い。ベッドタウンの特徴は高度成長期における地域の住への特化、とくに職と住の分離である。それゆえそれは低成長、高齢化、少子化、財政難、産業構造の変化でこのままではいかないと筆者は考える。低成長で人口が減少しても持続可能な、しかも外から人を呼び込むよりも、「職、住、育、学、遊、介護の再結合」による地域内循環と「グローバル、ナショナル循環との結合」による地域再形成としての「ポストベッドタウン」の方向(雨宮『協同主義とポスト戦後システム』第3章)が必要だろう。そこでは分権か集権かではなく分権も集権も、つまり政府も社会も地域も強くなければならない。
 たとえば職と住の再結合、再近接については筆者の調査によれば近現代の旧住民の5代目6代目、戦時戦後激増した新住民の2代目3代目の何割かは地元に暮らし、地元の企業、事業所に就職している。相変わらず高度成長期のように外からの不特定多数の人々の獲得合戦をするのではなく、現在この地域に住んでおり、育っている人たちが将来にわたってこの地域で豊かに生活できることを考えた方が現実的であろう。それゆえ歴史的につくられた、公園が多い、工場用地が少ない、初等中等教育の水準高い、高等教育機関の多いこの地域に内外に通用する、広い用地を必要としない本社となる企業、事業所、起業を今、この市の初等中等教育で学ぶ子供たち、すなわち旧住民の7代目8代目、新住民の3代目4代目5代目が男女ともども、特に女子が楽しく作り、そして就職できるような条件と好循環を全市的、全領域的に整えつくることが考えられるだろう(2018年10月二〇日号)。

⑧ 「遊び」と「文化」の意味

 第二にこの地域の住民は生活の困難=課題を解決するためにいかに互助や連帯をし、地域と社会を形成してきたか。現在市の課題の背景には、低成長、財政難、高齢化、少子化、格差、孤独化など日本全体の困難がある。新旧、世代、性別、階層、国籍などの異なる多様な住民は、国家や企業などに依存できないときに、それぞれ生産における生産者組合、消費における生協、公共のインフラが足りない場合は青年会が自ら作り、つながりや福祉が必要な場合、新旧住民の女性たちがボランタリーに関わりそして協力して、ハードやソフトを作り出しつまり社会をつくってきた。それは戦災時の自家菜園、買い出し、闇経済も含む自主管理、協同の経験でもある。この経験を思い出し、持ち寄り、結びつけることができれば今後の困難の解決にとって貴重な財産となろう。そして困難の形は前のものと似ているが、その後の過程が生み出した膨大な生産力とストックがある点でその解決方法の豊かさと自由度が異なる。
 さらに例えば上記の社会形成に新旧住民の女性たちが協力して、大きな役割を果たした。主婦という在り方が基盤であったが、それが70、80年代には、高齢化、パートも含む勤める人の増加など、一方で課題の行政への移行、NPOのような組織への移行、企業などへの指定管理の増加などによって活動は婦人会の解散と相まって前より目立たなくなっている。これは制度がつくられることによって課題が解決された側面、主婦以外の場への進出、非営利非国家の組織の設立など、場が進化している側面がある。さらに筆者の調査と実感であるが、この地域の住民は近代を通して文化の場を一貫して充実させてきた。それが公民館を中心とする膨大な趣味や文化の同好会やサークルの存在として実を結んでいる。そこでは彼女彼ら、特に彼女たちは思い切り楽しんでいて、かつほぼ全員が自分も楽しんでボランティアを行ったり、様々なネットワークを拡げ維持している。社会の形成と支えの新しい形である。そういう遊びや文化の在り方が社会を形成し支え、未来の「商品」や「サービス」のもとになり、また新しい政治のステージを準備しているように思われる(2018年11月25日号)。

⑨ 多様と統合の新しい統一へ

この市の近現代から見た第3の課題は政策決定の困難さである。近現代から現在までこの市の住民、政治家、職員たちは住みやすい、豊かな地域と社会をつくってきた。しかし首長や市議、職員などが大事なことを決定、実行していないとの声もある。この「非決定」や「遅れ」を旧来の基準で判断するのではなく新しい事態への対応過程として見てみよう。つまり①その争点自体が本当に早急に決定しなければならないのか。その基準は?②その決め方についても旧来の決め方でいいのか、である。
 グローバル化、低成長、高齢化、財政難等に伴い世界的に既成政党制度の動揺、安全保障や基地問題の手詰まり、今までの社会の主体であった日本人、男性、健常者、正社員、壮年以外の多様な主体の登場と表出、高度成長と生産力による膨大なストック、それによる「生産」から「文化」「遊び」の社会へ、「個人化」と「分断化」など。つまり、熟議(熟議については田村哲樹『熟議民主主義の困難』2017年、ナカニシヤ出版)も含む新しい政治の舞台、多次元の多様性=ダイバーシティの表出、政策の新しい打開の提起など、次の新しい社会を準備することにもなるものが基準となろう。
 その視点から例えばこの市の議会を見てみよう。ここでは一人会派が24議席中8、与野党関係は弱い(ちなみに武蔵野市では26議席中無所属として2、与野党関係強い=議院内閣制の傾向が強い)。女性市議数が2006年に日本一で引き続き多い。さらに最近(12月6日)、手詰まりの沖縄基地問題の本土各地域の当事者性(雨宮『戦後の越え方』2013年、日本経済評論社、110頁、227頁。河野康子、平良好利編『対話 億縄の戦後』2017年、吉田書店、199頁、279頁など)という新たな打開の方向を持つ意見書をこの国で初めて決議している。これらの点では上記の新しい段階に適応した新たな基準をつくっている(註1)。
 そして、与野党関係、既成政党関係を超えた市民ニーズの職員などとの協力による実現も「決定」であり、二元代表制の新しい形と内容の可能性もある。それを前提として旧来のあるいは外からの基準ではない新たな統合、「決定」が課題となろう。つまり多様と統合の新しい統一である。これらのことを住民は作為不作為において理解して行動していると思われる。いずれにしてもこのことをそれぞれが自覚的に行えばこの市はこの多様と統合の新しい統一というモデルの形成途上の先端にいることになろう(2018年12月25日号)。                                (註1)この当事者性はそれがなくても済んだ戦後体制から(雨宮『戦後の越え方』2013年、227頁)外交、内政諸領域で当事者性をもたざるをえない時代への応答の一つだろう。冷戦体制の終わりが当事者性をもたざるをえないポスト戦後体制の始まりであり、それが1989年であり、平成元年であった。それから30年を経て、たとえば最近2018年にアーミテージ氏やジョセフナイ氏が日本国憲法の9条改憲は不要で実質的な米日の軍事関係の提携を強化すべき、と言っている。つまり戦後体制の一環である憲法体制、特に第9条は米国の属国化の継続と意味することをのべている。9条を維持してかつ属国にならない在り方はいかに可能か、をそらさないで考える当事者性が客観的に求められている。上記の小金井市議会の決議はその一つの在り方をしめしていると考えられる。

 付記 本稿はまだ未定稿で様々なコメントをいただいて完成していくつもりである。