雨宮昭一の個人研究室

政治学と歴史学と地域の研究をしている雨宮昭一の備忘録です

シャッターのあるいは「シャッター街」の再定義と地域形成

 9月16日にオープンした「art' isozaki](水戸市三の丸1)に9月22日に行ってきた。水戸市の中心の地域の一つであり雑居ビルがシャッターが閉められている状態で数年後には「再開発」されるかもしれない地域でもある。

 このアートギャラリーの「こけらおとし」として招かれた現代美術家雨宮庸介の「作品」はいろいろな意味で興味をひくものである。一つは展示されている人の手とそれにいだかれた実物大のリンゴの彫刻である。ここには作品そのもの、およびその展示の仕方を通して、「物事の境界線とはいったいなにか」「本物か偽物か」といった物事の境界線の再考をせまっている。

 もう一つの「作品」はテーマを「あ、あな、あなた」「A Hoie  ,and You]となずけているようにこの雑居ビルの「リノベーション」そのものである。まずこれまでは捨てられたシャッターに穴をあけたことである。そしてそれが出入口になっている。さらにこれまでのように引き剝がされ真新しいタイルにかえられる床を丁寧にそのまま清掃しニスを塗っている。作者は「ピカピカの何かにするのではなく、この古いビルを生かしたありのままの水戸を肯定したいと思った」「一番の見どころは、ギャラリー内からシャッターの穴を通して見える水戸のまちそのもの。水戸の全部が役者で魅力」とのべる(「水戸にアートギャラリー 商業空間をアート空間に、見どころは「まちそのもの」ー茨城」みんなの経済新聞、yaHOOニュース、9月20日)。

 この作品における穴のあいたシャッターは[内」からは直接往来する多様な市民や車や自転車やベビーカーが見え、[外」からは落ち着いた床などが見える、かつ「穴」から出入り自由である。つまりこれまで内と外の境界であったシャッターの意味を変えている。それはこの地域の「現在」そのものの動的な表現でもある。つまり内からと外から人々の歴史的営為、人々そのもの、そして街が芸術作品であることにきづかせてくれる。さらに床においてはこれまでとこれから、つまり[過去」と「未来」の関係ずけに関わる。これまでの床を剥いでピカピカのタイルを敷くのは過去の否定から未来を始めることである。それに対してこれまでそこに住んだり働いたり訪ねたりした人々の足跡や人々の何かをこぼしたり塗り直したり掃除したりしたものが重なっている状態を、つまりは人々の歴史的営為を保存し可視化することによって未来につなげようとしている。以上の本物と偽物、内と外、過去と未来の境界の再定義のほかに、展示の仕方において「表」と「裏」の境界の再定義がなされている。展示は一階だけではなく四階まであり様々な仕掛けがなされているが、一階の展示においてはこれまでの展示空間だけではなくその準備室と倉庫まで「展示」している。つまりこれまでの表と裏の境界を越えているのである。

 以上の本物と偽物、内と外、過去と未来、表と裏、などの境界の再考をこころよく迫る、あるいは楽しませる諸「作品」の評価とは別にこの諸作品を筆者の専門に近い「地域形成」、「再開発」、「シャッター街」などに関わらせてみたい。これまでの地域の再開発は「古く」なったものをすべて壊してスクラップして新しい建物を作る、という思想、哲学、でなされてきた。これは全国でも地域でも狭い商店街やビル街でもさらに個々の建物のリノベーションでも古いものを壊して「あたらしい」「ぴかぴか」のものを、というその思い込みがつずいている。しかし国や自治体が補助金などで補助して行っても、さらに低成長下では将来にわたる借金である国債、地方債で行っても、短期的に一時的に雇用をや需要を作っても、少子化、高齢化、低成長の下では、すぐに次の「スクラップ」の対象状態になる。そして上記の「新しさ」もすぐに陳腐化する。人々の感性が底の浅い「ぴかぴか」を受容しなくなったのである。こうして財政難からも再開発を強行するか、放置するかの状態に移行しつつある。「再開発」の場合も古い建物の外壁だけを残して、あるいは屋根だけを残して内部を全部変える方式が多い。

 以上のような「再開発」、放置、再開発の微修正、という現状と比べると上記の「諸作品」の地域形成における重要な位置と意味が際立つ。人口が減り、高齢化し、かつ低成長の下で、ピカピカの新品でなく、これまでの地域の人々の歴史的営為を美的に継承し、お金をかけずに、豊かに生きていける在り方を既存のシャッターの再定義、外壁のみならず床の再定義、などなどによって表出している。お金をかけないということは後に負担を残さないことでもあるが、「ぴかぴか」の「新品」ではなく、また個々の建物に自己完結的にすべての機能を完備するのではなく、高度成長期に集積したトイレなどの公的インフラとの分担や近くの建物との分担なども自覚的に行えば可能であろう。つまりこれからの地域形成にこの「諸作品」は一つのモデルを提供しているといっていいだろう。

 もちろんこの作品はたくさんの人々との協同でつくられたものである。ギャラリーの磯崎寛也さん、たくさんの実業家の方々、工務店の桑名武之さんなどが時には議論しながらつくったという。筆者がみていてもいずれもわくわくと楽しくやっていることであった。さらに一時間半ほど現場にいたが、勤め人、高齢者、高校生、予備校生、ベビーカーの女性など多様な人々が「穴」をくぐり、のびのびとおもしろがっていた。話しを聞いてみると上記の再定義、による解放感を感じていることである。このプロジェクトに関わった人たちが、そして見た人達が感じている気持ちよさはそこにあるだろう。以上はアートと生活と地域形成におけるその境界の創造的な越え方をも表現しているとおもわれる。

 

 

 

 

世界史と同期する中国共産党

 三品英憲さんから『中国の国家体制をどうみるか―伝統と近代ー』(汲古書院、2017年)をいただいた。ここではその中の三品さんの論文「近現代中国の国家・社会関係と民衆ー毛沢東期を中心に」にコメントをしたい。三品論文の30年代40年代の中国共産党中央の少数の地主が大多数の小作を土地所有と現実で圧倒的に支配している、との農村認識が現実とギャップがあるのに、それを修正しないで基層幹部・党員の「階級的不純」に由来するするものとして各過程で処理したことによって、操作性が高まり、その構造が中華人民共和国に連続していく、との分析は豊富な史料と理論展開とあいまって説得力がある。それを前提にした上で中国史には全く無知な者の思いついたことを書いておく。

 その一つは中央が上記農村認識を修正しない理由と背景についてである。逆にある戦略と認識があってその「認識」をつくったのでないか、つまり現実の自作農中心の農村秩序の破壊こそがその基本にあったのではないか。面白いのは基層幹部・党員たちもその秩序からの影響と規定を受けていることへの中央の不断の警戒は見事にそれを示しており、史料も示している。

 上記破壊の方法も「群衆」をつくり今ある秩序を壊す方法である。この「群衆」は中央は知っていたかもしれないが、ルボンのいう無定型で暗示で動く「群衆」に近いのではないか。そしてこの破壊はグライヒシャルトンクである。それは古いもであれ新しいものであれ、封建的なものであれ近代的なものであれ、自立性を有するものを破壊することである(雨宮『戦時戦後体制論』岩波書店、1997年)。その意味では中国共産党は世界史と同期する現代性を共有していると思われる。“自作農中心の農村”の“自立性”の存在と契機と可能性、ドイツ、日本、ソ連など他の場所ではグライヒシャルトンクの後があるが、中国でもポストグライヒシャルトンクなどを考える余地があると思われる。以上はあまりに中国の「伝統」に還元することへの違和感からのものでもある。

 

8月の俳句

相聞の河鹿の声のくぐもりて

空論と空理の境生業の秋

ちゅーちゅーと原爆の日のドリンクを飲む

合縁と奇縁のあはひ蜻蛉交

渓流に揺るる鬼百合闇香る

その先を迷っておりぬ瓜の蔓

揺れやまぬ一木の一葉秋意かな

川は澄み河鹿は鳴けり物な思ひそ

 病院を三歩離れて蝉時雨

 

 今月は俳句を考える時間が多かった。

内側に足場をおきながら一方通行にならず維新史をサクセスストーリーでなく見る方法の検討

 『歴史学研究』の2018年8月号に後藤敦史氏が「異国船はなぜ来たか.」という論考をよせられている。その趣旨は内側に足場をおく一国史観は一方通行的になり明治維新をサクセスストーリーとしてみてしまう。それを相対化するためには研究戦略として東アジア海域から見ることが考えられる、一度内側から離れて見る、というものである。基本的に同意できるものである。

 しかし内側のあり方を変えないと結局一国史観に回収されてしまう可能性が大きい。それゆえ内側に足場をおきながら一方通行にならずサクセスストーリーを紡がない戦略、一国史観を内側から相対化するためには内側の主体のあり方を変えることである。つまりつくられつつあった一体としての日本人、一体としての日本ではない、現実に存在した多様な地域を主体とすることである。そのためにはそれら一体をつくってきた薩長史観、とベクトルは同一の反薩長史観、官軍史観と賊軍史観、の相対化である。NHKドラマの如く薩長と龍馬ががんばって立派な近代国家日本をつくったという、物語、とベクトルは同一の自由民権、政党政治青年将校運動などの反薩長史観の両方が補完し合いながら近代天皇制をつくり東アジアに被害を与え、自滅した。しかも両者とも責任をとらず、このまま同じ史観でいれば繰り返すことになるだろう。そこで薩長史観、反薩長史観、一体としての日本人、日本とはことなる現実の多様な地域を主体として立ち上げ、それぞれが「維新」を内にいながら外に見る、海域をそれぞれ見て、ときに連携する、ことをなすし、なしたであろう。

 以上のようなことを当面、甲州、水戸、

石見地域を例に詳しくは最近の拙著『協同主義とポスト戦後システム』(有志舎)第二章、216ページ、257ページなどでのべているので参照していただくと幸いである。

 

 

 

収集史料の委託

 若い時、もう50年以上前から、研究過程で自分で集めたり、史料所有者から委託されたり、原史料を借りてコピーしたものが相当数あった。どうするか考えていたが、その多くは私が茨城大学にいた時に集めたものがおおいので、茨城県の歴史館に委託することにした。2014年に段ボール箱20箱ほどである。それを整理され、3237点の目録化をされたのは瀬谷義彦先生の薫陶を受けられ、「茨城地方史研究会」などでも活躍されている久信田、野内、富田各氏を中心とした方々であり、感謝にたえない。

 さらに本年7月に残った段ボール箱5箱ほどを茨城大学の私のゼミナールOBの玉造君と瀬尾くんに歴史館にはこんでもらった。手元にあった茨城関係の史料は一応一段落した。貴重な原史料のコピーも原史料がよくあることだがなくなっていることもあり、大変貴重である。とにかくたくさんの方々のおかげで時間はかかるかもしれないが、公共的に残されることに感謝したい。

 その原史料コピーで重要なものがあり、国会図書館憲政資料室、ならびに東京大学法学部近代日本法政史料センター原史料部の知人にも協力してもらって調べたら、同じものが私がお借りしてコピーしたかなりあとだが寄贈されていることもわかったものがあり、その旨はコピー史料に添付するつもりである。