雨宮昭一の個人研究室

政治学と歴史学と地域の研究をしている雨宮昭一の備忘録です

内側に足場をおきながら一方通行にならず維新史をサクセスストーリーでなく見る方法の検討

 『歴史学研究』の2018年8月号に後藤敦史氏が「異国船はなぜ来たか.」という論考をよせられている。その趣旨は内側に足場をおく一国史観は一方通行的になり明治維新をサクセスストーリーとしてみてしまう。それを相対化するためには研究戦略として東アジア海域から見ることが考えられる、一度内側から離れて見る、というものである。基本的に同意できるものである。

 しかし内側のあり方を変えないと結局一国史観に回収されてしまう可能性が大きい。それゆえ内側に足場をおきながら一方通行にならずサクセスストーリーを紡がない戦略、一国史観を内側から相対化するためには内側の主体のあり方を変えることである。つまりつくられつつあった一体としての日本人、一体としての日本ではない、現実に存在した多様な地域を主体とすることである。そのためにはそれら一体をつくってきた薩長史観、とベクトルは同一の反薩長史観、官軍史観と賊軍史観、の相対化である。NHKドラマの如く薩長と龍馬ががんばって立派な近代国家日本をつくったという、物語、とベクトルは同一の自由民権、政党政治青年将校運動などの反薩長史観の両方が補完し合いながら近代天皇制をつくり東アジアに被害を与え、自滅した。しかも両者とも責任をとらず、このまま同じ史観でいれば繰り返すことになるだろう。そこで薩長史観、反薩長史観、一体としての日本人、日本とはことなる現実の多様な地域を主体として立ち上げ、それぞれが「維新」を内にいながら外に見る、海域をそれぞれ見て、ときに連携する、ことをなすし、なしたであろう。

 以上のようなことを当面、甲州、水戸、

石見地域を例に詳しくは最近の拙著『協同主義とポスト戦後システム』(有志舎)第二章、216ページ、257ページなどでのべているので参照していただくと幸いである。

 

 

 

収集史料の委託

 若い時、もう50年以上前から、研究過程で自分で集めたり、史料所有者から委託されたり、原史料を借りてコピーしたものが相当数あった。どうするか考えていたが、その多くは私が茨城大学にいた時に集めたものがおおいので、茨城県の歴史館に委託することにした。2014年に段ボール箱20箱ほどである。それを整理され、3237点の目録化をされたのは瀬谷義彦先生の薫陶を受けられ、「茨城地方史研究会」などでも活躍されている久信田、野内、富田各氏を中心とした方々であり、感謝にたえない。

 さらに本年7月に残った段ボール箱5箱ほどを茨城大学の私のゼミナールOBの玉造君と瀬尾くんに歴史館にはこんでもらった。手元にあった茨城関係の史料は一応一段落した。貴重な原史料のコピーも原史料がよくあることだがなくなっていることもあり、大変貴重である。とにかくたくさんの方々のおかげで時間はかかるかもしれないが、公共的に残されることに感謝したい。

 その原史料コピーで重要なものがあり、国会図書館憲政資料室、ならびに東京大学法学部近代日本法政史料センター原史料部の知人にも協力してもらって調べたら、同じものが私がお借りしてコピーしたかなりあとだが寄贈されていることもわかったものがあり、その旨はコピー史料に添付するつもりである。

 

 

 

蝋山政道における起承転結、米朝会談の意味

この間体調を崩し、ブログを休んでいたら何人かの若い友人から「催促」もあり、体調も回復してきたので書くことにする。

この間、『占領戦後史研究会ニュースレター』2018年6月に「戦後体制の言説生産の場と主体」という文章を書いた。そこでは蝋山政道が戦後体制の言説のメインコンテンツとして、第二の国体、協同主義、福祉と協同主義のための開発と経済の高度成長、を述べてきたこと、晩年にはそれらの特に開発の限界を自ら自覚していたこと、そのあとを私達はどう引き受けるか、を記した。蝋山のある側面の起承転結を、あるいは戦後体制のある側面の起承転結が書けたかもしれない。

 もう一つはこの間の米朝会談の位置と意味である。長いメモを書いたが文章にするのは後にする。この会議は、不断に「ならず者国家」を生み出す「無条件降伏モデル」に基づく戦後体制の一つの越えかた、超えかたの実践であり、それによる次元の変化を前提として外交や民間の刷新がなされる必要があると思われる。

 

 遅れたが6月の俳句

決勝の壁と希望へ雲の峰

たえまなき迷子放送若葉光

粗塩で食みし青梅遠い空

花あふち一日(いちひ)一時(いちとき)一事(いちじ)を愛す

 

 

5月の俳句 吟行場所としてのスーパーマーケットとその結果

昨日、市井の日常の場の一つとして選んだスーパーマーケットに吟行した。そのあとの句会ではいつになく豊富で多様で具体的な俳句が披露された。

カーネーションのあたりの品の影深き(いつこさんー以下さん省略)

メロディーとともに売らるる新茶かな(ひでお)

一望の

棚商いや風は初夏(じゅんこ)

ピンヒール試すをんなや夏帽子(みさ)

レジ前に並ぶ籠みな春キャベツ(みさ)

などなどかあり、先生の特選も普段のニ、三倍であった。今回の吟行の場所設定は会の

俳句の刷新というよりも次元をあげたとおもわれる。

 わたしも日常を日常として詠むために言葉を出来るだけ無意味にかつ言葉の間を出来るだけ無関連に詠むことにいたった。それが

厚揚げとパンツあがなひ新緑へ

である。これをほとんど正確に解釈して推薦してくれた会員がいた。その他に私が詠んだ句。

 ひっぺがす玩具売り場の五月の子

それぞれの孤独五月のフードコート

それぞれを知らず五月のフードコート

整理用品の整理必要夏に入る

君のままでいいといふ本梅雨の入り

紋白蝶斜めに降りて風を分け

出版記念会と四月の俳句

4月15日日曜日に小金井市のマロンホールで地元小金井市の「雨宮ゼミナール」の方々による拙著『協同主義と戦後システム』有志舎

、の出版記念会がひらかれた。27名参加され、地元の人、若い研究仲間、茨城大学獨協大学で教えたゼミ生などがそれぞれ10人ずつぐらいで、中身や地域の実情を踏まえた一人一人のお話と議論がなされ、楽しく有意義なあつまりだった。ありがとうございました。その時の私の講演は基準は現地からつくられなければならないこと、たとえば細分化された政治会派にわかれ、、かつ物事を決定しなければならない小金井市のいまは、強い政党とか、二大政党制とかの旧来の、また外からの基準やモデルではとけず、この地域の歴史的社会的政治的現実の中からつくりださなければならない、などを話した。4月25日には違う研究会にでたがキャリア官僚出身の研究者がすぐに組織を作ることをのべるのを聞いて、それは誰も責任をとらず、かつむだなエネルギーとコストを費消させ、人を疲労させることを指摘した。また本日、占領,戦後史研究会ニューズレターに原稿を送った。

 

4月の俳句

感傷を紡ぐちからや桜貝

世の中はかなり塩味桜餅

四月馬鹿花粉症の大鴉

四月馬鹿猫の長考とどまらず

大朝寝楽観主義に転換し

大花見少し外したサキソフォーン

大花見アジア各語の朗らかに

子の植えし白もくれんの咲き充ちて

『戦時期の労働と生活』法政大学大原社会問題研究所の2,3の論文について

出口雄一さんと米山忠寛さんから『戦時期の労働と生活』法政大学出版会、2018年をいただいた。第八章戦時期の生活と「遵法運動」と題する出口さんの論文は国家法秩序と社会規範の分立をめぐる動きの実証的な論文でありその歴史的法学的位置と意味をみごとにあきらかにしている。遵法運動を近代主義者や伝統主義者などがどう意味づけたかなど大変興味深い分析である。そのうえでのことだが、統制経済や法とことなる親戚や恩顧者、知人等の関係による「違反行為」の評価については伝統主義者も近代主義者も否定的であるが、国家、資本から自立して生活をなし、防衛する社会の存在としての新しい評価が必要ではないかと、考える。この点について特に感じたのは、拙著『協同主義とポスト戦後システム』有志舎を上梓したばかりであるかもしれない。

 第九章昭和戦時期日本の国家財政と家計、は米山さんの論文である。国家財政と家計をつなぐものが貯蓄奨励であることに注目してそのメカニズムとして、戦費支出による資金投下、インフレすなわち市場に金があふれ物質不足になる事態を強制ではなく防止するために貯蓄奨励が行われる。そこでは戦争によってゆたかになる国民への、あるいは国民一般への国家の「懇願」のありようも析出される。第十章パーマネント報国と木炭パーマ(飯田未希)もおもしろかった。贅沢などと禁止されたと思われているパーマネントが戦時中返って増加

していること。権力の側は「呼びかけ」程度

だったが「当時の新聞」が「禁止命令」のように提示したとの指摘などである。  

 支配と抵抗、民衆は貧困状態にある、等などの認識枠が支配的であり、戦時に民衆も「上昇」し、権力が民衆に依存し多様に対応する、ことなどを指摘しなければならなかった1970年代80年代(たとえば拙稿「1940年代の社会と政治体制」1988年。後に『戦時戦後体制論』1997年、岩波書店に収録)に比べると昔日の感が深い。上記各論文はそれらを実証的にも構造的にも鋭く豊かに展開されていることに敬意を表したい。