雨宮昭一の個人研究室

政治学と歴史学と地域の研究をしている雨宮昭一の備忘録です

稀勢の里を見るいろいろな見方

 昨日、茨城大学協創教育研究センター研究会のコメンテーターとして大学に向かう午後1時30分ごろ、水戸駅で「稀勢の里横綱に」との茨城新聞の号外が手渡された。稀勢の里については私も何度も何度もがっかりしてきた。前々場所の時であるが句会で、

 稀勢の里やっぱり負けます秋海棠(20

16年10月9日雲の会)

と詠んでしまった。これは、朝潮がどっと負けます曼殊沙華(坪内捻典)の形をお借りしたのだが一種のやるせなさとあきらめの心情をうたったものだった。自分が茨城県に長くいたこともあるがとにかく優勝して横綱になって、という焦慮のような気持ちでいっぱいだったわけである。それはメジャーに行った投手に二桁勝利を熱く期待することとも共通している。

 しかしこの間の稀勢の里の優勝、横綱決定のなかで最も印象的だったのは、稀勢の里のお母さんの「大関でながく相撲を取ってほしかった」とつぶやいたことばだった。それぞれの人がそれぞれの見方を持っていること、それを知りかつ尊重しあうことがそれぞれを豊かにしてくれることを感じた。そういえばメジャーに行った投手が目標を聞かれて速球をきたえて二桁勝利を続ける、とこたえたらコーチがそうではなく目標はながく投げ続けることだ、と言ったそうである。

徳田球一と水仙

 昨日自転車で多摩墓地にある私の家の墓にお参りに行った。済ませて自転車で帰るとき引きつけられるように右を見たら徳田球一という自然石に近いお墓があった。そして花入れに一輪づつ水仙が供えられていた。

 徳田は「獄中18年」「戦後日本共産党初代書記長」「所感派」「北京客死」などある意味で派手なイメージが残されているが、ピュアでフェアな人柄であることは新聞記者や政敵でもあった吉田茂なども認めている。

その意味でも今もお墓がさっぱりと清掃され水仙が一輪供えられていることは印象的であった。

  徳球に水仙一輪多摩霊園

2017年の年賀状

 あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。昨年は三度の研究会報告、大学院の講義、早大獨協大学での社会人講座、中国語版『占領とと改革』の出版、日野市地域創成報告書作成、BS朝日出演や句会参加などをいたしました。年甲斐もなくブログを始めました。

 かねてからの懸案であった「戦後の越え方と協同主義ー協同主義研究のための見取り図の一つとして」『独協法学』100号、2016年8月、を書くことができました。

 トランプ氏当選もふくめて、戦後あるいは戦後民主主義を守るか、壊すかの次元から、いかにいかなるシステムで戦後を越える=超えるか。つまり「戦前」-戦争前でない民主主義、システム、「戦後」-戦争後でない民主主義、システムという次元への移行という課題が誰にもわかるようになりました。日常の生活や研究会の中で皆さんと一緒にに考えていきたいと思います。

 みなさまの健康を心よりお祈り申し上げます。

  2017年 元旦

大阪・アート・七つの船

 2016年12月4日に大阪でおこなわれた「7つの船」というアートプロジェクトによるナイトクルージングに参加した。その時の印象が深かったのでその日にラインで知人に感想を送った。それはアートだけではなく歴史、地域、政治にとっても深い示唆を与える経験だったので全くの感覚的なものだがここに記録しておきたい。

 

 ナイトクルーズ、すごく楽しかった。大阪の近世、近代、そして現代、第二次産業第三次産業、ほんのわずかの第一次産業、住宅地などが川から見ることによって、つまり裏側から見ることによって非常に素直に見えた。それをアーティストによる様々なパフォーマンスが一層豊かにしてくれた。実に厚みのある経験であった。

 大阪かアートかではなくて元々豊かな大阪の過去、現在そして未来が、さまざまなアーティストによる船内外における最新のオリジナルなパフォーマンスによって豊かに立ち上がったのである。

  大阪の厚み立ち上ぐセブンシーナイトクルーズ

加藤陽子『戦争まで』朝日出版社、、2016年、について

 はじめまして、雨宮昭一ともうします。最近懸案だった協同主義研究のための見取り図の一つを書くことができました。それが「戦後の越え方と協同主義ー協同主義研究のための見取り図の一つとして」『独協法学』2016年8月、です。ここではそれ以後気がついたこと、読ませてもらった本、研究会で触発されたり、発言したことを記録したいと思います。

 

   加藤陽子『戦争までー歴史を決めた交渉と日本の失敗』朝日出版社、2016年

 本書は大変面白く説得力のある作品である。著者のこれまでの作品では事態の再現を中心にされてきたが本書では最新の研究と一次資料をふまえてオルタナティブを迫り、読者の高い(あるいは本来の)“当事者性”を陶冶しようとしている点などは高く評価される。

 それを前提にしたうえであるが本書の「合理的」で「現実的」とされている「世界の道」が大衆に認識されなかったことから戦争に向かった、という基本的論点を検討する。これはかならずしもイデオロギーの問題ではなくこの「世界の道」は内外の既得権益者である資本主義、自由主義勢力によって構成される世界秩序である。そしてこの資本主義、自由主義の問題性が露呈するのが本書が扱う激動期であろう。その問題性の解決が国内的国際的に放置されたまま「合理的、現実的」と言われてもその問題性の渦中にいる大衆は納得しない可能性があろう。つまり大衆はそうした「世界の道」の内容を知ったうえで従わなかったのではないか。知らないで操作されて戦争になったとは到底考えられない。

 筆者はこの問題性を放置した「世界の道」vsその「合理性、現実性」を理解できない大衆、という図式じたいが検討されないと相変わらずまた同じ事態が繰り返されると考えるものである。この問題性の克服がいかにして歴史的に可能だったか、可能か、可能になるかなどを大衆もふくめた「4潮流」などで、つまり一つの「合理的、現実的な世界の道」ではなく“複数の合理性、現実性、をもった複数の世界の道”の存在とその相互作用の解明である(雨宮昭一『占領と改革』岩波書店、2008年、同『戦時戦後体制論』同、1997年、前掲「戦後の越え方と協同主義」2016年論文など)。

 その中での具体的な問題性の克服に関連して一例をあげよう。戦時期に「満州」で「開拓」に関わり1946年に帰国し茨城県庁にはいり日本の「開拓」に関わった人物が「平地林が多いのに驚き」「いくらでも開拓はできるはずだな」ということをヒヤリングで聞いた〈茨城の占領時代研究会『茨城の占領時代ー40人の証言』茨城新聞社、2001年、283頁)。つまり「満州」に行かなくとも土地はいっぱいあったのである。見方と関係と制度を少し変えれば土地は「いくらでも」あり「戦争しかない」とは誰も考えないであろう。このようなことをあらためて想起できたのも本書が並外れて高い水準を有しているからであることは言うまでもない。